形式性に関するメモ

たまたま見つけた朝日新聞蓮實重彦のインタビューからメモ。
真面目さの欠如がいかに世界を単調にするか(1)
 「その場合、ポストモダンとはなにを指すのでしょう?」と確認をもとめられて、

 モノを書く際、人は自己言及的にならざるをない。その自己言及性、あるいはメタ性をどう処理するかという問題です。[中略]
 ポストモダンはモダンに必ずある緊張関係を対峙する。その緊張関係をくぐり抜けないと、人はモダンにもポストモダンにもなれません。ですから、「私はモダンだ」「私はポストモダンだ」などと言っているのは両方とも単なる馬鹿で(笑)。[中略]
 ポストモダンというのはイマジネーションだけでなく、形式で処理できるかもしれないという期待であって、そのイマジネーションと形式の間のコンフリクト(闘争、軋轢)をぎりぎりと自分の力にしていかなければならない。

 ここでは小説、特に大江健三郎の小説におけるイマジネーションが実は問題になっているのだが(中略の部分)、最後の文は、おおや/bewaad=mojimoji論争(参照:id:flapjack:20050127#p1)となんとなく響きあっているようなかんじがします。(ていうのはオレだけかもしれんが。)

 しかし、蓮實せんせ、爽快なぐらいすぱすぱ斬りまくってますな。引用しまくっちゃうことになるがいいや。

ポストモダンを踏まえていれば、これはおかしいぞ、ということが必ず出てくるわけです。単純な話ですけど、今朝、3つか4つの新聞を一面だけを見てきたんです。すると、ほとんどの新聞にマリア・シャラポワの写真が載っている。これって絶対、正しくないでしょ(笑)? つまり、東レ・パンパシフィックというのは世界的に見ても、まあ、4流ぐらいの大会ですよ。そこで優勝したシャラポワの写真をなぜ新聞各紙が一面に載せるのか? これは、なんでもありのポストモダンであるかにみえて、じつは読者に対する媚び以外の何物でもありません。各紙がこぞって一面に載せているいまの日本の状況は、ちょっと真面目さが足りないのではないでしょうか? その真面目さの欠如はいたるところに波及する気がする。夕べのNHKの「7時のニュース」でもトップに近い形で出ていて、そりゃ確かに彼女はリンゼイ・ダベンボートに勝ちましたよ。しかし、我々がどれほどスポーツが好きであっても、彼女の写真を一面やトップニュースで見るというのは断固間違っている(笑)。では、それをどう批判すればいいのか? 「可愛いからいいじゃん」と認めるんですか(笑)? それとも、彼女がいったいどの17歳より強かったのかを検証するのか。あるいは、他紙も横並びで彼女を一面で採りあげている事態そのものを検証するのか。いま朝日新聞NHKが盛んに争っていますが、それらの検証がないまま、シャラポワをトップで扱うことにおいては読者視聴者に媚びる姿勢を共有していることは、そんな争いと無関係にもっとひどいことが起こっていると思われてなりません。

笑えたのは以下。朝日新聞のインタビューを受けつつ

蓮實 そもそも、若い方で新聞を読んでらっしゃる方っています?

──朝の通勤電車では一応、まだ若いサラリーマンやOLが日経新聞などを読んでいるのを見かけますね。

蓮實 読んでいますね。しかし、はっきりしているのは日経新聞を読んで国際経済のことがわかるはずがないということです(笑)。つまり、日経新聞があることでバブルの崩壊を免れたわけでもないし、結局は後追いをしているに過ぎないわけです。もしも、日経が日本経済を正しく分析したのであれば、もっと伸びています。にもかかわらず、日経を読むというのは、よくわからないですね。ま、これはアサヒ・コムの取材なので、あまり新聞の悪口は言えないんでしょうけれど(笑)

もう遅いわい。