あらためまして休眠のごあいさつ

Retired | ブログ引退表明サービス

いやもう、ここに書き込まなくなってずいぶんになりますが、まだ見ていてくださる方がいらっしゃったら、申し訳ないことです。

たんじゅんに、以前はブログのために使えていた時間が完全にふっとんでしまっている状況なので、別に以前からここは休眠していたわけですが、いちおうちゃんと書いておいたほうがよいかな、と。ブログ引退表明サービスなんてものができているようなので、これも使ってみます。

それでは、また会うヒマで(と、この誤変換は残しておこう)。

「リアル『マトリックス』」の思い出

 
 昼飯のあと、腹ごなしに図書館のなかをぶらついていたら、宮台真司サブカル「真」論』asin:4901391666が目について手にとった。宮台真司がこういっていた。
 「(略)『マトリックス』は、社会的コクーニングです。生命維持装置につながれて、妄想的な夢を見せられているのは、個人ではなく、社会全体なんですね。
 日本のように社会全体がコクーニングしているようなところでは、洒落にならない話です。社会全体のコクーニングの中により小さなコクーン(まゆ)が生まれるのが、日本型オタク社会。そこでプラグインされた生命維持装置から注入されるのが妄想的マンガです。」 
 これに江川達也が「まさに日本社会はマトリックス社会ですよね」と同意する。
 
 数年前イギリスで、友人が入院していたので見舞いにいったとき、彼女が声をひそめてしてくれた話を思い出した。彼女が入院していた大きな病室には、中年から年配の女の人が20人ぐらいいたのだが、夜7時半になると、彼女たちの多くがいっせいに自分のベッドのそばのテレビのジャックにイヤホンをつけて、『コロネーション・ストリート』を見はじめる、というのだ。『コロネーション・ストリート』は、もう40年以上も、週3回ぐらいやっている連続テレビ小説みたいなもの―「ソープ(オペラ)」―だ。それを聞いて「『マトリックス』だね。こっちはリアルな。」といったら彼女は笑わないで、ほんとうに怖そうな顔をしていた。
 
 何日か前、彼女が先週その病院で亡くなったという知らせを受けた。退院してけっこう元気にやっていたはずだった。いろいろ他人を巻きこんで人騒がせなところもある彼女だったが、亡くなるとは。言葉がない。

阿部謹也氏逝去

亡くなられたか。生前、直にお会いしたことが一度だけある。自分の書いたものをいつか読んでいただければよいなと、心のどこかで思っていたようだと逝去の報に接して思う。間に合わなかった。途中から学者としては「あがって」しまわれた感があったが、彼が提起した問題は考えつづけられねばならないと思っている。このサイトで氏にふれた文章としては以下の二つがある。
 
学問と「世間」(id:flapjack:20030915#p1)
網野善彦氏追悼関連(id:flapjack:20040302#p1)の2)
 
前者のエントリーとのつながりで、氏の名前に直接言及はしていないが、阿部世間論を批判的に検討したエントリーが以下のふたつ。
 
世間論(id:flapjack:20031027#p1)
世間と社会 (id:flapjack:20040224#p1)
 
さらに、時事的関連で、上のテーマにふれたエントリーとして:
 
共同体圧力の増大 (id:flapjack:20040318#p1)
 
彼の人と学問をしるには『自分のなかに歴史をよむ』筑摩書房)(ISBN:448004115X)をまず勧める。昔、これを読んで、おれも学問していいのかな、と思った。

Reza Aslan, No God but God: The Origins, Evolution, And Future of Islam (orig. 2005, 2006)

 かえりには飛行機の乗り換えでアムスによったのだけど、手もとにはそのまえの飛行機にのるときにもらったガーディアンと学会で買った本しかなかったので(それだけでも十分といえばそうなんだが)、もう一つなにか欲しいなと思い、スキポール空港内の書店をみてまわる。で、たまたま手にとったこの本を買った。あそこで英語の本をかうと割高なんだけど、しかたない。
 で、まだ読み終わってないんだけど、めっちゃおもしろい。問題がないわけではないらしいのだけど、とにかく読ませるイスラム入門書。これ日本語に翻訳されつつあるんだろうか(ぜひそうであってほしい)。この本についてはいろいろ書きたいのだけど、疲れたのでまた今度。

学会の醍醐味

 先月、一年ぶりにヨーロッパのある国でひらかれた学会で発表した。いつものことだが(今回は80人の参加者中)日本人ひとり。尊敬する研究者たちを目の前にしてしゃべり、そのあと彼等から笑顔で握手を求められる。非常にうれしい。その場になってみれば緊張はしなかった。多少ゆっくりしゃべっても時間オーバーしないぐらい、おもいきって刈り込み(それは非常につらい作業で極度の寝不足になったが)自分のいいたい論点を明確にできたので、早口になることもなく余裕をもってはなせた。やはり早口はいかん。あるアメリカ人の研究者の発表は僕がおもうにとてもよい内容だったが、早口すぎて多くの人々に十分に理解されず不評をかこっていた。最初にかましジョークがうけたのもよかった。やはり早い時点での笑いは重要。
 他のひとの発表からいろいろ刺激をうける(でもダメなのもある)。こういうところにきて、自分も含め研究者たちの関心がいくつかの方向性にむかっていることを感じる。そのうちのあるものはかなり明確になっていて、その種の研究はすでに量産されかけている。大学院生たちの現在進行中の研究を展示しているポスターセッションをみていてもそれは明らかだ。しかし、まだそこにいる大多数の研究者にははっきりとは自覚されていない、まだぼんやりとした方向性があることも感じとれる。
 そのうちのひとつでも(そしてできればいくつかを)自分のマテリアルでだれよりもはやく形にし、ひらかれた議論のフォーラムにつけくわえること、それが「研究」であり academic contribution というものだ。刺激をうけ、刺激をかえす、そういう議論の場に参与すること、これである。とはいっても、自分の研究にいきつくまえにこなすべきことが山とあるのだが、バリバリこなして、研究にいきつこう。
 学会というのは楽しいところでもあるのだけれど、弱肉強食なところでもある。研究ができるかどうか(というかへたするとできそうにみえるかどうか)というところだけで、あからさまに序列関係ができあがってしまうところがある。ああいうところでの社交というのはけっこう戦場だったりもする(あんまり考え込むとそれはそれでよくないんだけど)。僕の関係するところは幸運なことにいい人たちがおおいんだけど、それでも、やはり人間である以上さけられない。そして、そこだけ見てしまうとほんとうにあほらしいし気疲れする。以前とはくらべものにならないけれど、いまでも気疲れする。だけど、みんなが探求している知の世界というのがあって、そこに直接自分が参与できた、できそうだ(と思える)ことがほんの数秒でもあると、すべてがまったくちがって見える。そのためにやってんだよ。ま、おたがいがんばりましょう(と、おれはだれに書いているんだろうか)。
 

15年

五十嵐一(ひとし)氏殺害事件の時効まで30分をきった。殺害される数日前に研究室でお会いし、夏休み後にゆっくり食事でもしながら話をしよう、といわれたばかりだった。殺害のニュースにショックをうけつつ数日後には予定通り中東へ出発。帰国後、警察が訪ねてきて聴取をうけた。もしあの殺害事件がなかったら、どういう研究に進んだか。今とはずいぶん違う方向にいっていたと思う。時効のニュースを聞いて、友人から殺害のニュースを知らされた15年前の暑い夏の夜を思い出した。15年。

学会におけるシンポジウム

某月は学会シーズンで初めて出席したものもふくめていくつか参加した。何度も出席したことがある学会で聞いた個々の研究発表のレベルは、もちろん当たりはずれはあるものの総合的には上がっていると思う。
 
しかし、出席したどの学会でも、個別の研究報告ではないシンポジウムのほうはその質がてんでばらばらだった。つまり、全体として一定の水準が保証されているとはとてもいいがたい。
 
一般論として、以下この点を述べてみる。
 
一定の水準といったがこれには二つの側面がある。一つは、そのシンポジウムの個々の発表のレベルであり、もう一つは、シンポジウム全体としての整合性・かみ合わせかたのレベルである。シンポジウムという形式をとるとき、この両方においてとたんにその質が保証されなくなる。
 
まず、前者の個々の研究発表レベルでいうと、そのレベルでは密な仕事をだす人がシンポジウムのレベルでは非常に雑駁なレベルの発表をすることがよくある。もちろん、それは問題提起的な発表であるわけで完成度を求めるべきではないという考えはなりたちうるし、実際前口上のなかでそのような考えに訴える人も多い。しかし、例外はあるが、そういった「問題提起」として述べられるものは実際には知的緊張感を欠いているものが多い。実際のところ、書籍化されることも念頭においていないシンポジウムでは、言いっぱなしでよいと緊張感が欠落しているだけのように見える。
 
次に、後者のシンポジウム全体のレベルに話をうつそう。この点では、そのシンポジウムが焦点をあてている問題系について、それぞれの発表者が異なった題材を扱う際に、違った側面を強調したり、違った考えをもっていたりすることはあって当然だが、それらの違いがどのような付置 constellation をなしているのかを、発表者相互も企画者も共有していないし、あるいは関係者の間でなされた理解を聴衆と共有しようとしていないようにも思える場合がある。とはいっても、シンポジウムの前口上など聞くと、企画者たちは主観的には自分たちはそうしていると思っている場合もある。事前に関係者が数回の打ち合わせをおこなってもいるようだ。しかし、本番をみてもその成果がまったくわからない。
 
この二つのレベルは絡み合っている場合がある。特に後者が前者に影響を与えることがある。シンポジウムの企画と個々の研究者それぞれの関心とが整合されていないために、発表のフォーカスが分裂しているケースだ。この場合は、その研究者はがんばっているつもりでも、シンポジウムの意図だと聴衆から思われるものから、ズレたことを延々はなしていることになる。
 
こうしたシンポジウムの発表者が大先生である場合、事態はさらに悪化しうる。これにはおそらく、企画者が大先生につっこめないということがあり、すべてを大先生に丸投げしてしまうからだろう。
 
結果として、聞いた人がそのシンポジウムの意義のようなものをそれぞれ勝手に見いだしてお持ち帰り下さい、と単に述べておわりというようなことになる。そのようなことはいわれなくても聞き手はそうするだろう。重要なことは、企画・発表する側がそれぞれの立場でそのシンポジウムが扱う問題系にきちんとアドレスしているか、を聴衆が検証できる場をつくれているか、ということだ。そのような場をつくらないとすれば、それは企画側の無責任だと個人的には思うが、そのような考えは一般的ではないのだろうか。
 
非常に高いレベルで組み立てられているシンポジウムは存在する。けれども、そうしたシンポジウムの割合は低い。それはすなわち、シンポジウムというのはどの水準で組み立てられなければならないか、ということについてのコンセンサスが、今回見聞きした界隈では成立していないということに思える。