降りる自由

id:Ririkaさんのところで、「降りる自由」についての話題が再燃している(id:Ririka:20040222#p2)。議論がまっさかりだったときには少し距離をおいたのだったが、できるだけ短くコメントします。

なぜ、「降りる自由」がある、とか、「降りる自由」が保証されるべき、とか、「降りる自由」を行使する、とか、わざわざ言わなくちゃならなかったんだろう。言わずにいられなかったんだろう。
もちろん、読み手に言い聞かせるためだ。「降りる自由」などない(=降りちゃいけない)というコンセンサス(があるとして?)を否定しておくためだ。そういうふうに読者を納得させて、同じような考えを共有してもらうためだ。そうしておかないと、自分がなんらかの不利な状況、まずい状況に置かれるかもしれない、と不安になったためだ。

うーん、そう読んじゃうか。いや、別に彼らを代弁するつもりはないのだが(しようとしても間違えてるかもしれんし)、東浩紀北田暁大にとっては「降ろさんぞゲーム」の道徳的暴力にどう対抗するか(id:gyodaikt:20040213#p1)、というのは結構切実な問題だと思います。そしてそれはなんとなくわかる。
たとえば、一方で、いわゆる新保守主義の「戦争責任なんかいつまでも負えるか」というような考え方がある。他方で、左翼のなかには「一億総懺悔」的に責任を感じる人たちもいまだに多い。これに加えて、「責任のインフレ状態」(偽日記(2004/2/12付))をあえて引き受けて、しかし責任の無限連鎖に答えることは不可能だから、「あくまで不能(無責任)として生きるという責任=倫理」を自らに課すポストモダンの思想家もすぐ上の世代にいる(ポストモダンの思想はしたがって左翼の責任論と親和性が高い)。で、広い意味での左翼の思想は「降ろさんぞゲーム」の道徳的暴力に堕ちやすいし、実際に堕ちてしまっている側面もあると思う。かといって、責任という問題系を正面から考えることすらできない右翼は問題外だ。だとすると、どうすればいいのか。「降りる自由」とか「降り方の調整」とかいうのは、そういうバックグラウンドからでてくる議論ではないかと思う。
だから、たとえば北田氏とか東氏が単に言葉で読者を囲い込もうとしているというように読むことは、少しRirikaさんの問題意識(それは、すごくよくわかるんだけど、あまりにつよい倫理意識かもしれない)にひきつけすぎなんじゃないかと思うわけです。