追記

 上のエントリーに関して、ふだん愛読させてもらっているはてなダイアラーの方々からリファをいただく。
id:tokyocat:20040926
id:pavlusha:20040926
id:sarutora:20040926

 上のエントリーの最後で「プロ野球での選手会のストとそれに対する人々の支持というのはかなり大きな変化ではないか、と思ってるんだけど、どうなんでしょうかね」と書いたのに対してsarutoraさんからコメントをいただいた。そこからかなりくねくねと考えをめぐらせてしまった。まずはコメントを引用:

私は、なんか例の人質事件のことを考えてしまいます。あのとき、「主張する弱者」がたたかれた、と言われたのですが、今回の場合、古田が、対決姿勢を全面に出さず、むしろ苦悩するリーダーみたいなイメージを作り上げたことが、人々の同情を得た面もあるのではないかと。ファンにあやまったり、感極まって号泣したり(見てないけどそうらしいですね)。人質家族も、「国民」にあやまっていれば、あそこまで叩かれなかった、などと言われました。……というようなことを考えると、どうなんだろう、とおもっちゃいます。

 たしかに古田がうまく振舞ったという要素はでかいのだと思います。そうだとして、僕としては、結果としてえた人々からの支持というのは、それ自体としてかなり重要だという考えはあまり変わっていません。
 (昔からかもしれないけれど、特に)今の日本は、単純に正しいことをいっていればとおるという世の中では完全になくて、正しいメッセージでも、それをうまくコミュニケートする能力がなければ通じないどころかかえって逆効果になる。そういう意味で(よかれあしかれ)ある種のものすごく高度な批評眼をもっている社会であるわけですよね。
 一方で、確かに、人質家族にうまくコミュニケート能力をそこまで求めること自体、酷だというか単純に「筋違い」であることは確かだとおもうし、あそこまでバッシングをする世の中はたしかに「どうなんだろう」と思います。
 他方で、人質家族が政治活動を過去にしてきた人々であったとしたならば、コミュニケーションということに関してあまりにもナイーブであったのではないかという気も確かにします。
 単に批判をし自らの正当性を主張して世の中が変わるならいいけれども、そもそもそういうふうにうごいてきていない世の中はそう簡単に変わらないわけで、だからこそ、コミュニケーション能力がますます重要になる。その意味で、古田は現実主義者だったと思いますし、非常に賢明に行動したと思います。
 だから古田バンザイということで済ますのもなんか違う。要するに、情緒的政治の問題を認識しながら、望まれる効果(この場合ではストに対する支援)をうるためには、その情緒的政治に一度乗らねばならないという(ようにみえる)現実をどう考えるのかということなのかなあ。
 一つの鍵は、情緒的政治に一度乗らねばならないというときに、それは「演技(フリ)」という問題ではないということかな。古田だけでなくて、切込隊長が絶賛する日本ハムのトレイ・ヒルマン監督の「3時間半ぶっ通しの超ロングランサイン会」とか、こういうのは「演技」ではなくて、コミュニケーションするという意志と方法の問題だと思う。
 なんだか、ぐちゃぐちゃですね、考えが。
 ともかくも、日本ではストライキというわかりやすい異議申し立てのかたちが効果という点でほとんど封じられてきたことを考えると、今回のプロ野球選手会ストライキはかなり特筆すべき事態だと思います。(Junky(id:tokyocat)さんがリンクされてる東京新聞の記事参照)
 一方、情緒的政治に一度乗るというのとは別に、Junkyさんが紹介してくださったid:toni-tojadoさんのメール・携帯を活用してPCの稼働時間を記録することでサービス残業に抵抗する方法なんてのもある(id:toni-tojado:20040926)。

実際、労働基準署の立ち入り調査であげられる会社はすべてPCの稼働時間で言い逃れができなくなり、社員が誰一人口を割らなくても降参しています。

クール!
 むざむざと「分轄統治」(id:pavlusha)されることなく、自分も生き残りつつ、他人の生き残りもできれば応援しつつやってく。まあ、ぼちぼち。


話はずれるけど、id:tokyocatさんの村上春樹アフターダーク』評(id:tokyocat:20040925#p1)。村上春樹について去年から感じていたことをずいぶん言語化してもらった感じがして勝手にありがたく思っている。宿題がつみあがるばかり。