ステレオタイプ

 今日は夕方、セミナーを聞きに大学へでかける。二つの発表があった。ひとつめは友人のでそれはなかなかおもしろかったのだが、もう一つは、いわゆるストダンの文学理論(もうすこしいうとポスコロ)うんぬんかんぬんの最悪の類。おれは、ポストコロニアリズムだから、とか文学理論はこれだから、とか十把一絡げに言いたくない(ということは、ここでも何回か書いた)。なんだが、こんな類はやっぱりいるんだなあ。脳みそが豆腐になってしまったではないか。
 セミナーが終わって、カップ洗ったり机うごかしたりの片付けをやって、ほとんどの人々がひけてしまってから、同じように片付けをやってた二人の友人にはなしかける。「いや、脳みそが豆腐になってしまったよ」と話し掛けたら、その二人が堰をきったように話し出す。当然「おれらの40分間を返せ」で一致(笑)。
 英文学でもまともな研究をしている友達や研究者たちがたくさんいるんだけれども、こういうやつらは、なんでか英文学畑にいるんだよなあ。こういうやつらのおかげで、きちんと研究している人達が迷惑をこうむっているのは間違いない。でも、そんなことに気づかないのがまさにこういうやつらなのだ。
 こういう人たちは「contextualiseしなければならない」とか、「sublimeなものをとりもどせ」とか「translationというのは重要だ」とかお題目ばかりで、そのうえ-iseとか-tionをつけてつくった造語を使いまくるわりにはそれらの言葉を一度も定義せず(translationという言葉で何を意味するんだ、と最後に聞いた人がいたのだが「ひとつのものが別のところにうつることすべて」とか言いやがって、そんなの「なんでも」じゃねえか、意味ねえ)、becauseというわりにはぜんぜん論証になってないことをいい、しまいには必然性のないところでベンヤミンその他のname droppingを繰り返す。そういうのはわかったから、実際の分析をみせてくれよ。それはともかく、なんで、こんなやつの本を出版するのか、Cambridge University Press
 いや、なんか山形浩生のポモ批判みたいになってきたが、だって、そのものをイヤというぐらい目の前でみせられたんだもん、ゆるしてくれよ【とだれにいっているのかおれカネゴン】。
 これはまえから思うことなんだが(というかこんなこと誰かが既にいっているはずだが)、ステレオタイプ的な見方ってのはいけない、ってよくいうんだけれど、ステレオタイプだから間違えてるってもんではないのだ。ステレオタイプのまんまの現実って結構存在している。こちらが、「いや、そんなにステレオタイプなんすか、そんなわけないよね」と思っていろいろステレオタイプじゃない側面を見出そうとするんだが、「やっぱりステレオタイプまんまだー」と愕然とするというか呆然とすることってあるんだよ。ステレオタイプはバカにできないのだ。