Our foreign friends by Will Hutton (後半)

この二冊の強みは、経済分析を用いて、[アメリカの]保守派の経済政策の二枚舌、考え違い、そしてそれがもたらす犠牲を暴露していることと、誰がなぜ得をするのかについてのするどい(streetwiseな)認識があることだ。

弱みは、というと、どちらも、アメリカの保守派がなぜこれだけの力を持ってしまったのかということについて、満足のいく説明をしてくれないことだ。

クルーグマンは、ある箇所で、両手を宙にあげて「認めなくちゃいけないのは、なぜこれがおこっているのか僕にはぜんぜん定かじゃないということだ」といっている。確かなのは、「右派の連中がこれだけのこと(キャピタル・ゲインへの課税の廃止、環境についての規制を含めあらゆる規制を撤廃すること、外国を侵略すること)を全部したがっているということだ」。

スティグリッツにとって問題は知的議論にかんしてだ。つまり、もし、クリントンの周りの人々が、自分たちは議論の正しい側にたっているともう少し確信していたのならば、彼らは、あんなに果敢に予算赤字を削減しなかっただろう[つまりそういう知的議論を経て自分たちの立場をはっきりさせておくべきだった]。そして今ごろ、アメリカはもっと研究があって、より良い公共インフラストラクチャーをもっていただろう。[しかし、そうならなかった。前半で、ハットンは、賢いエコノミストと非の打ちどころがないリベラルな経歴をもつ政策学者たちが、どのような過程を通って、熱心に公共支出を削減し、民営化を図り、キャピタル・ゲイン税をカットしさえするはめになったのかをスティグリッツがうまく描いていると高く評価している。ハットンによれば、スティグリッツは、クリントン政権が[リベラルな方策において]前進するのを妨げた(あるいは少なくともよりダメージがないやり方で規制撤廃をすることすら妨げた)原因を、強力な企業側ロビーと新保守主義側の経済についてのコンセンサスが組み合わさったことに求めている。]

ひょっとしたらそうかもしれない。でも、クリントンは、保守派の渦巻きの只中で政権を動かしていたのだ。

私自身の見方は、市場ファンダメンタリズムは、アメリカの保守派シンクタンクによってかたちづくられてきたというものだ。彼らは、偉大なアメリカの神話(すなわち、個人主義、フロンティア、独立独歩、勤勉によるあがない、丸太小屋からホワイト・ハウスへ)をあまりにも巧みにつなぎ合わせたので、それは、自己強化するイデオロギー的な思考システムとなってしまい、クルーグマンスティグリッツが使いこなすタイプの合理的な議論に全く影響をうけなくなってしまったのである。

自由への訴え[新保守主義の立場]は、政府と公正を重んずる議論[これがスティグリッツクルーグマンの立場]を圧倒する。というのは、前者が、アメリ中産階級の胆と、労働者階級の生の偏見にアピールしてしまうからだ。私は、ユダヤ人と黒人の参加を非公式に拒むカントリークラブの話を聞かされてきた。そして、アメリカの南部と西部(すなわち古い南部連合国(南北戦争における南側)の核をなす)では、女性、黒人、そして人間進化についてのダーウィン的な記述に対する嘆かわしい態度が水面のすぐ下に潜んでいるのだ。市場ファンダメンタリズムは、自由を求める声と組み合わされて、この偏見のカクテルを正統化する。そして、ソ連の崩壊がこの話全体に、あらたな、そして人の心にじかに訴えかける正統性をあたえ、それはまだ燃え尽きていない。

アメリカは、外国(foreign country)なのだ。そして、スティグリッツクルーグマンもどちらも、ヨーロッパ人のように考える東海岸の知識人であり、アメリカが[ヨーロッパから]いかにかけ離れて(foreign)いるのか、はかりかねているのだ。(終)