僕がここの部分を訳したのは
クルーグマンとかスティグリッツたちが言っている経済政策関係のことそれ自体は、日本でも知られてきているにも関わらず(それは、上の書評の僕が訳していない前半部分に書いてあるんだけど)、彼らの政治的位置付け(つまり、上で書いたように、彼らは政治的にはアメリカの内部で孤立しているということ)が日本ではあまりきちんと理解されているとは思えないからだ。
ハットンの言っていることは、僕が前から思っていたことと結論的には同じ。つまり、スティグリッツとクルーグマンは、どっちかといったら、むしろヨーロッパの進歩派と考えたほうがわかりやすいということ。
奇妙なことは、彼らのアメリカ内部における政治的位置と、日本でスティグリッツとクルーグマンを支持する比較的頭のよい人たちの政治的位置は、それぞれの国のなかでパラレルなのだ。
日本の政治(経済)は、今回のイラク戦争を見るまでもなく、アメリカ政府一辺倒で動いているわけだし。
しかし、なんで、スティグリッツとクルーグマンが新保守主義(そしてその上に乗っかっているブッシュ政権に対して)するように、小泉に対して同じような観点からきっちりとした批判が聞こえてこないのはなんでなんだろう?といつも感じてしまう。
あってもそれがきちんとメディアに載らないということなのか?と思ったら、どうもそうではないみたいだ。
山形浩生(id:hiyori13)のケーガン『ネオコンの論理』(光文社)書評
http://cruel.org/asahireview/asahireviews06.html
によれば
さて本書の書評は散見されるが、いずれも日本にとって本書の議論が持つ意味について「重い」だの「意義深い」だのといったおためごかしで言を濁しているのは、頭が悪いのかただのへっぴり腰なのか。それは解説の文藝評論家も同罪。本書の議論を認めるなら、結論は単純明快。軍事力に劣る日本の唯一の道は、自立も誇りもかなぐり捨てて、精一杯アメリカのご機嫌うかがいに徹した阿諛追従のケツなめ奴隷国家として生きよ、ということだ。そうはっきり書けばいいのに。
そのうえで、その山形さんは、「ぼくはそれ(奴隷国家として生きること)でもいい」って書いてる。
うーん、ネオコンの議論の帰結にすら向き合えないんじゃ、批判どころじゃないよなあ。そんで、それがわかる山形さんでも「それでもいい」んじゃ物事はすすまないでしょ。
というか、でも、あなたが訳しているグルーグマンやスティグリッツはそういう状況のなかでネオコンに対して戦ってるわけで。。。。
でも、もちろん、山形さんは圧倒的にたたかってる人だもんなあ。
だから、山形さんでもそうなのかあ。
というのと、おれは、ぜんぜん戦えてないじゃん、というのと、あうーー。
それはともかく、だとすると、以上述べたような状況にたいする批判的視座を持った上で、かつ、政治的経済的利益を図りつつ(つまりアメリカにある程度お付き合いしつつ)、さらに正義をどのように打ち出していけるのか、というのが日本人(特に政治家)の課題ではないかという程度のことすら、共有されないのは当然ということか。
すくなくとも、そうした政治的な振る舞い方を考えるのに、アメリカだけを見ててもダメだろ。アメリカは例外で、アメリカの異常に強力な力の影響をこうむっているアメリカ以外の場所のことを見たほうがいろいろおもしろいと思う。特に、ヨーロッパ(プラス、カナダ)をみろ。みんな苦労しながらいろいろやってるって。
で、そういうことを知るときに、ヨーロッパの進歩派の議論を知るのは、アメリカ=日本という関係を相対化できるという点でたいへん役に立つ。なんだけど、それが日本では聞こえなさ過ぎるんだよな。
スティグリッツとクルーグマンがオッケーだったら、ヨーロッパの進歩派、オッケーだろ。というわけで、もっとみんなガーディアン読め(笑)。ウェブがタダという点で、NY Timesよりもとっつきやすいしね。