読書能力の発展段階

読書能力の発展段階を<①論理を追うほどの能力がないので、適当に名句のようなものを探し当て、そこだけに過剰反応する>→<②論理が追えるようになり、ついつい性急に結論部を探してしまう>→<③全体が見渡せるようになり、細部をじっくり楽しむ余裕ができるようになる>というふうに三段階に分けるとすれば<以下略>

そのとおりだなあと。この場合E.H.カー『歴史とは何か』という名著について書かれているわけだが、概説書とか教科書についても同じようなことがいえるような気がする。もちろんその概説書というのも分野によっていて、経済学とかだと、初級をきっちりマスターして次、みたいなふうに段階を追っていく必要があるのだろうけど、人文系だとそういうわけではないというか。もとの少し話がずれるのだろうけれども、ちょっと書いてみよう。

概説書/教科書の使い方

 自分のことを振り返ると、人文系の概説書/教科書というのは初心者が読むべきものとされているのだが、僕個人としては日本での学部から院にかけて概説書をきちんと読めたためしがなかった気がする。ぴらぴらめくって、はーん、みたいな。概説書/教科書というのはその性質としてバランスのよい記述みたいなものが心がけられているわけだが、こうした本はバランスが考量される過程自体を収録してはおらず、考量された結果のみを記しているものだ。こうした本を読むのは、実は非常に難しい。その書き物の背後にある思考がどういったものかに対する痕跡が消されているからだ。こうした読み物を読まされる側は、それをまるまる覚えさせられる(なぞる)ような読み方をするか、部分部分から非常に散漫な情報を読み取るか(ぴらぴらめくって、はーん)、そのどちらかになりがちだ。
 最近になってようやく概説書というものを味読できるようになってきた気がしているのだが、それは、そこそこ自分なりのフィールドができてきて、そこのなかで自分が得てきた考量のなされかたみたいなものについて、勘がつくようになってきているからだろう。
 しかし、自分が今ごろになってようやく味読できるようになってきた、そんなものを初心者にいきなり読ませようという気がしない(とはいっても『歴史とは何か』はちょっと別格で、むしろ読ませたい、読ませるべき本だということは強調しておきたい)。僕としては、バランスが考量される過程自体、あるいは、バランス以前の事実が考察される過程というか、そこに直接人をつれていきたい、というか、そうしないと自分も面白くないし、聞いている側もおもしろくないだろう、と思っている。概説書というのは、そういう過程をやったあと読んで「なるほどね」となる、そういう種類の本ではないかと思う。(つまり概説書そのものが権威主義的だといっているのではなく、その使われ方を問題にしているのだ。)

追記

ちょっと語弊があるようなことを書いたので、補足修正のために追記する。「概説書」はスタートラインでないと意味するつもりはなくて、スタートラインなのだけど、使い方にコツがあるということなのではないかと。概説書をまずクリアしてから、その先の研究書とか、さらにその先のデータとか史料とかととっくみあうというのは建前としてはそのとおり。だからといって、概説書に延々ずっとつきあっていてもダメということがいいたいのかも。概説書の先にある研究書(概説書に挙げられているfurther readingsのなかでおもしろそうなものとか)、さらにそこで扱われているデータとか史料の種類に取り組んでみる、それで歯が立たないのならば、概説書に戻って該当箇所の基礎をチェックして再挑戦とか、でも結局あまり面白くない話しか出てこなさそうだと思えば対象を少しズラしてやってみるとか、概説書はそれよりもディープなモノとの対照相関関係のなかで特に生きてくるものではないか、と思う。(「初心者にいきなり読ませようという気がしない」と書いてしまったのはそういう意味ではミスリーディングで、「概説書だけを読ませようという気がしない」と訂正したい。)
 要するに、概説書は、先を行くための杖と地図であって、杖だけを後生大事にしていても仕方がない、ということ。で、先にいって、振り返ると、自分が最初に頼りにした地図の出来がよいことがわかったり、実は間違っているのではないにせよ、ぜんぜん違う風景に見えたりする。あるいは、最初に頼りにした地図とは別の地図をみても、一通りのプロセスをたどった後では、地図の描く地形が見えやすくなっていたりする。あくまで比喩だけど。*1

*1:教えるほうも概説書をそういうものとして使うことに意識的であってくれれば。。。なんてことを思わなくもない。まるっきり不平不満だらけだったというわけでもないんだが。

イギリスの歴史教育

そういうことを考えていたときに、那須さんからトラックバックされた。中途半端にid:flapjack:20050612でリンクをはっただけのトリストラム・ハントのガーディアン論説の意味について解説してくださったのだ。あることについてちょっと書いてはそれをフォローしきれずに終わってしまうヘタレなので、非常にありがたい。心苦しいが以下の行論上、かなりの部分を引用させていただく(以下では元の文章に付されたリンクが落ちてしまうのでぜひ全文をこちらでごらんいただきたい)。

ハントがコラムで批判しているのは「イギリスの歴史教育における複数主義的伝統(the pluralist tradition in British history teaching)」を否定し、アメリカや日本で進行しているような単一的な愛国教育へと方向転換しようとする政治的な動きである。もちろん、日本の歴史教育のやっていることが愛国教育だけとは言えないし、イギリスも自国が世界中で展開した植民地支配を批判的に検討することに長く消極的だった。しかしそういった内容の問題を超えて、イギリスの歴史教育が例えば日本のそれとは全く異なるものであることは確かだ。ハントによればそれは「一次史料への集中、相対立する記述の分析、そして徹底して掘り下げるエッセイ(the concentration on primary sources, the analysis of competing accounts and the writing of in-depth essays)」によって鍛え上げられるものである。これは高等教育ではなく、実に小学校レベルから始まっているのである。イングランドのナショナル・カリキュラムを読めばその特徴ははっきりする。5才から16才までの11年間の義務教育は四つの段階(Key Stage=KS)に分けられていて、歴史は14才までに三つのKSで学ぶことになっている。その中身を読んでみると、たとえば「歴史解釈」がKS1から学習内容に含まれていることが分かる。KS3では「生徒は(a)歴史上の出来事、人々、状況、変化が、どのように、そしてなぜ異なる仕方で解釈されてきたのかを学ぶこと。(b)そうした様々な解釈を評価することを学ぶこと」とある。ここに書かれているようなことは、日本ならば大学に入って歴史学専攻を選んだときに初めて、まるで企業秘密のように明かされる考え方だ。高校いっぱいまで、歴史とは解釈の余地のない事実として教えられるからだ。歴史教育と一口に言っても、やっていることは全然違うのである。この違いをしっかりと認識し問題化している人はあまり多くないように思う。見事に論じているのは佐藤正幸氏の『歴史認識の時空』に収められた「歴史教育における知識と思考」だ。

イギリスにいるときに、現地の学校(グラマー・スクール)に通っている日本人の男の子(日本でいうと中学生)の家庭教師を数年間していた。日本の勉強についていけるようにということで、日本の数学とか国語とか受験英語を教えていたのだが(英語結構ぺらぺらしゃべれる彼にとっても受験英語は必要だった(此れについてはまた書こう)、あと日本の英語教育はアメリカ英語に標準化されているから、イギリス英語のまま答えると間違えになるケースがあるし、面倒なことだ)、途中から何でも教えるよ状態になって、彼がヒーヒーいっていたラテン語やら(グラマースクールレベルだとまだやっているみたい)、イギリスの学校の歴史の授業の宿題とかも手伝ったりしていた。
 最初にそういう宿題を見たとき、僕はちょっと感動した。たまたまそのとき授業でフランス革命をやっていたようなのだが、課されていた宿題は基本的には、トリストラム・ハントが書き、那須さんも指摘している「一次史料への集中、相対立する記述の分析、徹底して掘り下げるエッセイ」を要求するものだったのだ。もちろん、本当の一次史料ではなく、副教材に載せられている短い元の資料の翻訳や単純化されたグラフだった(全部でせいぜいA4で2,3枚程度)。また、課されていたのも「徹底して掘り下げる」というほど厳密なエッセイでもない。しかし、とりあえず一次史料を読み、矛盾する(あるいは当時異なった立場に立っていた人々―農民とか貴族とか―の)情報(意見)を読み、グラフを読み取り、なぜどのようにある事態が起きたのかの解釈を提示することが求められていたのだった。

韓・中・日共同歴史副教材『未来をひらく歴史』をめぐって

上に書いたような流れで、最近発刊された韓・中・日共同歴史副教材『未来をひらく歴史』(ISBN:4874983413)というのも見られるというか、見るべきなのだが、那須さんもいわれるように、それがあまり日本で一般的であるようには見えない理由は、日本の初等中等教育における歴史教育のあり方に鍵があるのだろうと思う。この教科書について小田中さんは基本的に評価しながらも、その問題点についてこう書いておられる(id:odanakanaoki:20050617)。

(2)この本の問題は、3国の参加者が合意したことだけを書いている点にある。合意にこぎつけた努力は高く評価されるが、むしろ合意できなかった点について、諸見解を並列的に書くべきではなかったか。この本は歴史教育の副教材だが、歴史教育では、史実を知ることもさることながら、ものを考える力を身に付けることも大切な目的だろう。そして、そのためには、多様な見解を比較し、自分で検討することが役立つはずだ。もちろん、この本と「つくる会」教科書を読みくらべればよいのかもしれないが、それも大変そうだし。

このエントリーに対するコメントで、この教科書の執筆過程や対立点について書いている韓国のインターネット新聞『Oh my News』の記事の翻訳を知る。この記事は、非常に興味深く、これこそがまさに「教材」であるように思える。
http://www.janjan.jp/world/0505/0505267526/1.php
 はてなで、この教科書について言及しているいくつかのサイトをみてみたのだが*1 そのなかのいくつかは、日本側がそもそも中国韓国側寄りでバイアスがかかっている、とか、中国側の言い分に反発する、とかで、こうした突合せの作業そのものを否定したり、読ませるな、というはなしになったりしている。他方、上に引用したように、教科書を書いた側も、異なった意見を単一の見解に収斂するか記述していないということになっている。すなわち、どちらの側も、歴史の教科書はそこに書かれたことを読者が丸ごと受け入れるべきものであると考えているという点で変わらないように思える。いずれにせよ、権威主義的ということだ。
 上に書いたように、僕個人としては、権威主義的に読まされる書物というのは面白くないと思うんだけど、どうしてみんな権威主義が好きなんだろうか。人に読ませることばかり考えていて、自分で読むことを考えていないんじゃないのかな。
 もう一度イギリスの人が14才までに受ける歴史教育の目標を見てみよう。
 (a)歴史上の出来事、人々、状況、変化が、どのように、そしてなぜ異なる仕方で解釈されるのかを学ぶこと。
 (b)またそうした様々な解釈を評価することを学ぶこと
歴史学者がやっていることはまさにこういう仕事だ。こういう仕事は非常に楽しい。しかし、それが学校の教科書になるとき、その楽しい過程はごっそりなくなって、結果だけが学ばれるようなかんじになる。これはどういうことなんだろうか。歴史学者は、その人が扱うテーマについての決定的な歴史を書きたいと思っているわけだから、必然的に権威主義者なのだろうか。歴史学者は、自分たちが見つけた結果を人々に押し付けたいだけなのだろうか。
 そういう歴史学者もいるのかもしれないが、そういう人ばかりではないことは、小田中さんや那須さんといった歴史学者たちがそう考えていないことからも明らかだと思う。
 歴史の教科書が問題なのではなくて、それこそ「歴史とは何か」が問題なのだと思う。歴史とは、一つの歴史の物語(=教科書)を権威主義的に教えるものなのか、多様な解釈にひらかれ、それらが対話していく舞台なのか。僕は後者だと思うし、大学で歴史学を学ぶ人だけではなく、より多くの人が後者にふれていけられるとすばらしいと思う。
 
参考:現在の学校での歴史教育の現実についての認識については id:sava95:20050613#p2が興味ぶかかった。
参考2:小田中さん at id:lelele:20050618#c

歴史教育は現場が大切というお話、そのとおりだと思います。ただし、ぼくはいま先生方にインタビューするべく全国の高校を回っているんですが、皆さんいろいろと試みてはいるんです。だから、ぼくはあまり悲観はしていません。そのうえで、問題はその「現場の知識」が、なかなか広がらず、したがって「コモンセンスとして」共有されてゆかないことにあると思います。ではどうすればよいか、うーむ、という感じです。