韓・中・日共同歴史副教材『未来をひらく歴史』をめぐって

上に書いたような流れで、最近発刊された韓・中・日共同歴史副教材『未来をひらく歴史』(ISBN:4874983413)というのも見られるというか、見るべきなのだが、那須さんもいわれるように、それがあまり日本で一般的であるようには見えない理由は、日本の初等中等教育における歴史教育のあり方に鍵があるのだろうと思う。この教科書について小田中さんは基本的に評価しながらも、その問題点についてこう書いておられる(id:odanakanaoki:20050617)。

(2)この本の問題は、3国の参加者が合意したことだけを書いている点にある。合意にこぎつけた努力は高く評価されるが、むしろ合意できなかった点について、諸見解を並列的に書くべきではなかったか。この本は歴史教育の副教材だが、歴史教育では、史実を知ることもさることながら、ものを考える力を身に付けることも大切な目的だろう。そして、そのためには、多様な見解を比較し、自分で検討することが役立つはずだ。もちろん、この本と「つくる会」教科書を読みくらべればよいのかもしれないが、それも大変そうだし。

このエントリーに対するコメントで、この教科書の執筆過程や対立点について書いている韓国のインターネット新聞『Oh my News』の記事の翻訳を知る。この記事は、非常に興味深く、これこそがまさに「教材」であるように思える。
http://www.janjan.jp/world/0505/0505267526/1.php
 はてなで、この教科書について言及しているいくつかのサイトをみてみたのだが*1 そのなかのいくつかは、日本側がそもそも中国韓国側寄りでバイアスがかかっている、とか、中国側の言い分に反発する、とかで、こうした突合せの作業そのものを否定したり、読ませるな、というはなしになったりしている。他方、上に引用したように、教科書を書いた側も、異なった意見を単一の見解に収斂するか記述していないということになっている。すなわち、どちらの側も、歴史の教科書はそこに書かれたことを読者が丸ごと受け入れるべきものであると考えているという点で変わらないように思える。いずれにせよ、権威主義的ということだ。
 上に書いたように、僕個人としては、権威主義的に読まされる書物というのは面白くないと思うんだけど、どうしてみんな権威主義が好きなんだろうか。人に読ませることばかり考えていて、自分で読むことを考えていないんじゃないのかな。
 もう一度イギリスの人が14才までに受ける歴史教育の目標を見てみよう。
 (a)歴史上の出来事、人々、状況、変化が、どのように、そしてなぜ異なる仕方で解釈されるのかを学ぶこと。
 (b)またそうした様々な解釈を評価することを学ぶこと
歴史学者がやっていることはまさにこういう仕事だ。こういう仕事は非常に楽しい。しかし、それが学校の教科書になるとき、その楽しい過程はごっそりなくなって、結果だけが学ばれるようなかんじになる。これはどういうことなんだろうか。歴史学者は、その人が扱うテーマについての決定的な歴史を書きたいと思っているわけだから、必然的に権威主義者なのだろうか。歴史学者は、自分たちが見つけた結果を人々に押し付けたいだけなのだろうか。
 そういう歴史学者もいるのかもしれないが、そういう人ばかりではないことは、小田中さんや那須さんといった歴史学者たちがそう考えていないことからも明らかだと思う。
 歴史の教科書が問題なのではなくて、それこそ「歴史とは何か」が問題なのだと思う。歴史とは、一つの歴史の物語(=教科書)を権威主義的に教えるものなのか、多様な解釈にひらかれ、それらが対話していく舞台なのか。僕は後者だと思うし、大学で歴史学を学ぶ人だけではなく、より多くの人が後者にふれていけられるとすばらしいと思う。
 
参考:現在の学校での歴史教育の現実についての認識については id:sava95:20050613#p2が興味ぶかかった。
参考2:小田中さん at id:lelele:20050618#c

歴史教育は現場が大切というお話、そのとおりだと思います。ただし、ぼくはいま先生方にインタビューするべく全国の高校を回っているんですが、皆さんいろいろと試みてはいるんです。だから、ぼくはあまり悲観はしていません。そのうえで、問題はその「現場の知識」が、なかなか広がらず、したがって「コモンセンスとして」共有されてゆかないことにあると思います。ではどうすればよいか、うーむ、という感じです。