概説書/教科書の使い方

 自分のことを振り返ると、人文系の概説書/教科書というのは初心者が読むべきものとされているのだが、僕個人としては日本での学部から院にかけて概説書をきちんと読めたためしがなかった気がする。ぴらぴらめくって、はーん、みたいな。概説書/教科書というのはその性質としてバランスのよい記述みたいなものが心がけられているわけだが、こうした本はバランスが考量される過程自体を収録してはおらず、考量された結果のみを記しているものだ。こうした本を読むのは、実は非常に難しい。その書き物の背後にある思考がどういったものかに対する痕跡が消されているからだ。こうした読み物を読まされる側は、それをまるまる覚えさせられる(なぞる)ような読み方をするか、部分部分から非常に散漫な情報を読み取るか(ぴらぴらめくって、はーん)、そのどちらかになりがちだ。
 最近になってようやく概説書というものを味読できるようになってきた気がしているのだが、それは、そこそこ自分なりのフィールドができてきて、そこのなかで自分が得てきた考量のなされかたみたいなものについて、勘がつくようになってきているからだろう。
 しかし、自分が今ごろになってようやく味読できるようになってきた、そんなものを初心者にいきなり読ませようという気がしない(とはいっても『歴史とは何か』はちょっと別格で、むしろ読ませたい、読ませるべき本だということは強調しておきたい)。僕としては、バランスが考量される過程自体、あるいは、バランス以前の事実が考察される過程というか、そこに直接人をつれていきたい、というか、そうしないと自分も面白くないし、聞いている側もおもしろくないだろう、と思っている。概説書というのは、そういう過程をやったあと読んで「なるほどね」となる、そういう種類の本ではないかと思う。(つまり概説書そのものが権威主義的だといっているのではなく、その使われ方を問題にしているのだ。)

追記

ちょっと語弊があるようなことを書いたので、補足修正のために追記する。「概説書」はスタートラインでないと意味するつもりはなくて、スタートラインなのだけど、使い方にコツがあるということなのではないかと。概説書をまずクリアしてから、その先の研究書とか、さらにその先のデータとか史料とかととっくみあうというのは建前としてはそのとおり。だからといって、概説書に延々ずっとつきあっていてもダメということがいいたいのかも。概説書の先にある研究書(概説書に挙げられているfurther readingsのなかでおもしろそうなものとか)、さらにそこで扱われているデータとか史料の種類に取り組んでみる、それで歯が立たないのならば、概説書に戻って該当箇所の基礎をチェックして再挑戦とか、でも結局あまり面白くない話しか出てこなさそうだと思えば対象を少しズラしてやってみるとか、概説書はそれよりもディープなモノとの対照相関関係のなかで特に生きてくるものではないか、と思う。(「初心者にいきなり読ませようという気がしない」と書いてしまったのはそういう意味ではミスリーディングで、「概説書だけを読ませようという気がしない」と訂正したい。)
 要するに、概説書は、先を行くための杖と地図であって、杖だけを後生大事にしていても仕方がない、ということ。で、先にいって、振り返ると、自分が最初に頼りにした地図の出来がよいことがわかったり、実は間違っているのではないにせよ、ぜんぜん違う風景に見えたりする。あるいは、最初に頼りにした地図とは別の地図をみても、一通りのプロセスをたどった後では、地図の描く地形が見えやすくなっていたりする。あくまで比喩だけど。*1

*1:教えるほうも概説書をそういうものとして使うことに意識的であってくれれば。。。なんてことを思わなくもない。まるっきり不平不満だらけだったというわけでもないんだが。