ガーディアンはどうやって社説の論調をきめたか。

「ガーディアンがどうやって今回の選挙についての社説の論調を決めたか」ということについて、ガーディアンの選挙ブログで、アラン・ラスブリッガーというひとによるエントリーがでた。ざっと訳してみたい。

5月3日の一週間ほどまえのお昼時間に、ガーディアン本社ビルから、100人ほどのジャーナリストが本社ビルの面するファリンドン・ロードをわたって、向かいに立つ同新聞社の文書庫+カンファレンス・センターに、一時前にはいっていった。これは組合のミーティングでもないし、ストライキでもなかった。これは、編集スタッフのだれもが、投票日直前の社説でガーディアンがとる論調について、自分の意見をできる機会であり、選挙前の恒例の「儀式」だった。

強力な社主のいる新聞では、選挙時に意味のあることは2つしかない。
一つは、社主からの直接の電話での指導がなければ、ボスの心を正しく読むことだ。
もう一つは、もし、お前はそこそこ値のするバーガンディ・ワインとかそういう話題以外について社主と話したことがあるだろうとほのめかしをされたら、それに対して抗議しておくことだ。選挙に関する発言は絶対に、自分自身の意見であるように見えなければならない。

ガーディアンには、そうした社主がいない。ある意味では、ずいぶん気楽である。当てのない推測をする必要がないからだ。けれども、他のほとんどあらゆる点については、もっと難しい。というのは、自分たち自身で、自分たちの考えをきめなければならないからだ。それは具体的には、いかに下っ端であろうと、いかに政治とは関係ない部署で働いていようとも、ジャーナリストであるならば、考えをもてるように、議論のフォーラムをつくることを意味する。

ある意味では、この会合は、編集オフィスにおける日々の編集会議の延長線上にある。私の知る限り、イギリスではガーディアンでしかやってないことだが、この編集会議では、職員ならばどのジャーナリストでもはいってきて、その日の新聞に対する批判や次の版についてのアイデアをもって発言してよい。

先週火曜日の特別会合では、30名ほどのジャーナリストが発言した。そのうちの3分の一ほどが、日常的に政治に関する記事を書いている人たちだ。残りは、整理部員であったり、記者であったり、スポーツ記者であったり、コラムの筆者であったり、デスク編集者であったり、海外特派員であったりだ。

社説を書く人々のほとんどもそこにいた。部屋のあちこちにちらばって、ある者はメモをとっていた。前もってみなに明確にされていたのは、その会合で出席者による投票はないということだった。そして、その会合の目的は「論調を定める set a line」することではなかった。むしろ、可能な限り十分な議論をもつことで、編集スタッフのなかでの議論の重心がどのあたりにあるのか、社説を書く人々が感覚をえることが目的であった。出席したほとんどの人たちが同意しているが、この会合では、真に充実した、刺激的でかつ知的な議論がもたれたのである。

数日後、社説を書く人たちは、編集長及び副編集長と一時間ほどの会合をもち、火曜日の大きな会合であげられた問題をもう一度慎重に考えた。それをもとにして、第一稿がかかれ、社説を書く人たちのあいだで回覧され、コメントがふされた。フィードバックが反芻されて、そのうちのあるものは、最終稿のなかに組み込まれ、それが今朝(つまり5月3日)に紙上にでた。それがここで読める(上で要約した)。

以前、id:gachapinfanさんに、なぜそもそも社説などというものがあるのか、という質問をうけて、そのままになっている。専門家でもなく、それほど深く調べたことがあるわけではない僕にはいまだうまく答えられる準備はない。ただ、社説の存在は、投票で個々のいい記事をえらべよいといった、ライブドア的なフラットな市場的観点からは説明できないだろうということは確かに思える(ガーディアンにも、一週間でもっとも読まれた記事ベストテンがトップページの一番下にリストされているが、各記事に対する決定的な評価とはなっていないという意味で、ライブドア的評価とは別のレベルである*1)。ここでガーディアンの例を見たように、社説は、投票による民主主義によって社内のなかでその論調が決定されるわけではなく、個々のジャーナリストが自分の考えをもちながら、しかし、ガーディアン全体として訴えたいと考える価値・物事の判断をくだす、その焦点であるということだ。その新聞が全体としてどのような判断をくだすか、それがかかわるトピックのなかでもっとも重要なものが、総選挙直前の社説というもので、そこで、その国の政治に関する全体状況について、大きな状況認識をはっきりとさせる。その状況判断は、新聞によって異なるものであって、どれが一概に絶対的な真実であるかはだれにもいいようがない。それは人それぞれが考えざるを得ない。そうした大局的状況判断のレベルと、それとむすびついた個々の報道のレベルで、市場競争している新聞もあるわけだ。いわずもがなのことだが、日本の大新聞はおしなべて選挙に際してそうした大局的状況判断を示す機会を公正中立とかいって自ら放棄している。それはそれで一つのあり方ではある。けど、とりあえず上のガーディアンの社説を読んでみてほしいと思う。

*1:とはいえ、フジテレビとかに関してはもうちょっとライブドアにうまくやってほしかったわけだが