剽窃禁止というゲームの射程

 少し前に、非常勤先の授業で、レポートを課すけれども、剽窃plagiarism厳禁、発見されたら(これがなぜか結構簡単にわかる)即落すと述べた上で、では剽窃とは何かということについて話す。
 剽窃とは、他人の考察・分析を引きながら、それに対する出典指示(reference)を示さずに(結果的にせよ)自分の考えとして提出することと言う。だから「自分の考えを述べよ」というと、少しわからない顔をする学生がいる。学部時代の自分を振り返りつつ(かなり遠くの過去になってしまったが)考えると、「自分の考えを述べなさい」というのを「オリジナルな考えを述べなさい」と聞いてしまう極端な傾向があった気がする。そんなものは本当は要求されていないのだが、そう聞こえてしまう。それは自分=個性=オリジナルといった、凡庸な、しかしあまりにも強力な80年代末期以降(?)のイデオロギー作用のためだろう。
 しかし「オリジナルな考え」などそうそう出るわけがない。そこで、こまった学生が何処にいくかというと「感想」にいってしまう。感想は個人的なものだから、オリジナルなのだ、ということかもしれないが、そんなわけはもちろんなく、誰も彼もが似たような感想ものを出してくるということになる。
 そこで、こちらが要求している「自分の考え」というのは「感想」ではないし、同時に真に「オリジナルな考え」を要求しているのでもない、と明示してみる。こちらが提出する「これはこうか? それはどのようにあるいはどの程度そうか?」といった問いに対して答えることをしてほしい。その際、他の人の意見を参照してもかまわないし、というかするのが当然だが、その際たとえば「だれだれはこう言っているが、それに対して、自分は同意する/同意しない。というのは」といったように論じればよいのだ、という。「オリジナルではなくても、問いに答えていればよく、他人の意見と同じでも、その理由をきちんと示していればよい」というと、少しほっとしたような顔が見える。
 あたりまえの話だが、しかし、このあたりまえの話をして、ほっとした顔がみえるということは言って意味があることかもしれない。

 剽窃というのはなかなかにおもしろい現象ではないか、と思う。
 剽窃は、他人の声を自分のものとしてしまうということによって学問的な犯罪行為とみなされるわけだが、やっている側の学生の意識としては、単に、他人の声に自らの声を重ねてしまう、いいかえれば憑依してしまうだけのことだ。そこには「自分」というものはなくて、幽霊のように漂っている何かがある。しかし、その何かは「オリジナルであれ」という声をどこからか聞いて困っている。
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 話はすこし変わるが、剽窃がその科目で単に不合格になる以上の制裁をくらうことを意味するイギリスの大学には、今中国本土からの留学生があふれており、多くのイギリスの大学は彼らからの授業料をたいへんに当てにしている。彼らなしに立ち行かない、といって過言ではない。なにしろ英国人学生の3倍の授業料を払うからだ(もちろんその点では日本人も同じだが、数が違う)。しかし、彼らはよく剽窃をし、それをどういうふうに扱えばよいのか、大学は困っている。戸惑っているのは中国人学生の多くでもあって、彼らの多くは、なぜ剽窃が悪いのかが理解できない。これまで中国ではふつうにやってきたことをいきなり学問的犯罪扱いされれば戸惑うのが当然だ。しかし、説明するイギリス人教官の多くも、「剽窃というのは考えられない悪だ」ということの説明を、中国人学生たちに届くように説得的に語っているようにも思われない。ではイギリス人学生は、わかっているのか、というと、実は最近はかつてほどわかっているわけではない。以前は大学にこなかったような若者が大学の枠が広がったせいで入学してきており、トップ大学は別にして、全体として質が落ちてきているといわれている。イギリスの中堅大学の教員は、そうした大衆化している大学、そうした学生の現実を正面から受け止めるのに戸惑っている、あるいはstate of denial(現状否認の状態)にあるというのが周辺の大学教員の友人たちとはなす印象だ。だが、中国人とイギリス人の学生はやはりこの点では一緒ではないのだ。
 こうした中国人学生の状況を笑える状況には日本の学生はなかった、すくなくとも7,8年前の状況ではなかったように思う。それは今剽窃といわれるようなことが、(ノートとか文献の)「引き写し」ということで別にそれほど問題でもなかったからだ。それは「引き写し」で答えられる問いを課すほうの大学教師の問題ということもできるかもしれないが、そうしないと学生数が多すぎて教師の側ではどうしようもない大学体制の事情もかなり大きいのかもしれない。*1
 ともかく、最近の日本の大学教育は、過去数年で個別の事例的にはずいぶん変わってきているような印象ももっていて、いま書いた中国人学生の状況とは少し違っているように思う。中国人学生のなかには、上で書いたような「オリジナル」なものに対する(微妙な*2)強迫観念はないように感じるからだ。また重要なのは、剽窃がダメというルールがかなり一般的になってきているように思えるからだ。
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 さて、そういう状況認識がデムパでないとして、とりあえず思うのは、剽窃禁止という学問内ルールを単にごり押ししてもあまり意味がないのではないか、ということだ。単に剽窃禁止というのではなくて、そうすることのメリットを積極的に示すことが重要なのではないか、ということだ。
 剽窃をしてはいけないというのは、「自分の声」と「他人の声」をまず区別せよ、ということだ。とりあえず、そういうルールを適用したゲームをはじめてみることで「憑依してしまう幽霊」から「自分」が生み出されてしまう(つまり「距離」が生まれてしまう)。もちろん、「自分」になったからといって、すぐ学問的に「オリジナル」なことがいえるわけではないし、そんなことが簡単にできるのなら(研究部門で「オリジナル」な知見を生み出すことが要求される)大学などいらない。そこで生み出された「自分」は、まるっきりオリジナルなことをいうことでもなく、しかし他人の声を自分の声と重ね合わせてしまうのでもなく、その間で自分の声と他人の声とを区別して、その上で二つをすり合わせ、あるいは他方に異議を提出し、ということを、のこのこやっていく。それをやるうちに、「あれ? これは新しいのかも」といったことがおこりうるわけだが、それはある意味単なる結果に過ぎない。
 剽窃の問題は結構奥深いのではないかと思うのは、こういう剽窃禁止というゲームの導入からはじまる一連の動きが、公共空間において議論を積みかねるスキルを身に付けていくということと重なっているだろうと思うからだ。『嗤う日本の「ナショナリズム」』 (ISBN:4140910240)の最後で、北田暁大が、アイロニーの空転をくい止めるために、共同幻想(=リベラリズム)への素朴な信頼を調達する必要があるということを述べている。それの話とここでしている話は関係していると思っているのだが、それはこういうことだ。すなわち、上で書いたような、剽窃=憑依か、あるいはその逆方向に振れた土台無理な「オリジナル」か、そこでヘタった感想文か、といった不毛な三択で終わってしまう学生がもし結構な数でいるとすれば、それは建設的な議論を積み上げる、言い換えれば、共同幻想を紡いでいくための土壌を培養することに失敗しているということだからだ、つうとおおげさか。ま、やることやります。

*1:そこで(学生の数が減っているのであれば、それを逆手にとって少人数教育を徹底的に施していく、それによって声望をたかめて受験生をひきつけるということをやってる大学もあるのだろうけど、授業料が高くなりすぎることになったり、そもそも受験生が大学にそんなことを求めていなかったりして、難しいのかもしれない。そうした知への欲望といったものを大学側が涵養してこなかったこともあって、そういうものが受験生の側になくなっているといってたのは内田樹だったっけ?

*2:というのはそれを真に追い求めるほど強迫されているわけではないから