海外在住研究者の立ち位置+英語で書くこと

むなぐるまさんとこの最近のエントリー2つ。
新年に:(2)「土着の情報提供者」としての在米日本人研究者

日本の言語・文化・歴史を体で知っていて、なおかつ欧米の学会におけるコミュニケーション能力を持つ人材を育成すべきではないのだろうか。
(中略)
長くなったが、日本で研究に携わる方にとって、このエントリが海外在住の日本人の立場について少しでも考えるきっかけになれば、と思う。海外の日本人研究者は、自分が好きでやっているのだから、別に支援しなくても、という先入観がある気がする。しかし、仕方ない事情で海外に残っている研究者も多い。海外で研究キャリアを始めてしまうと、日本の閉鎖的な大学システムに入り込むのは難しい。一方、海外ではいつまでも外国人扱いで、異文化や生活苦からくるストレスなどに耐えねばならないのである。また、博士号を取るなどの個人的な利益だけでなく、学会のコミュニケーションなどに生きる人材になろうとか、それなりの公義に立って研鑽している研究者もいる。日本の財団は、もう少しそのような日本人研究者を支援する手段を考えるべきなのではないのだろうか。

プラス
standpoint1989さんの
英語で発信すること

それを考えると、アメリカ帝国主義はともかく、英語帝国主義なるものは実在しているといわざるを得ない。
まあそれを非難したところで、これは歴史的な事情からそうなっているので、どうにもならない。
英語がそうでなければ他の言語がそれに取って代わるだけだ。(中略)
所与の条件としてこれに適応するしかない。(中略)
それを外国の人に理解してもらうことが必要なのであって、靖国神社のようにドメスティックなものが外交的な争点として浮かび上がっているようなことについては、もし相手の理解を得たいのであれば、日本語世界に閉じこもっていては実際的にはほとんど何の寄与もしないだろう。(中略)
ブログでも、これを英語で発信すればいいのになあというのも随分ある。
極東ブログさんやむなぐるまさんはその気になれば(もしお時間の都合がつけば)自力でそれをするのも不可能ではないのだろうけれども、誰かが許諾の上それをすればよほど労力は軽減するだろう。

そこでのむなぐるまさんのコメント
http://standpoint1989.cocolog-nifty.com/hello/2005/01/post_6.html#c1360100

ティーンエージャーとして米国に移住し、それからかなり意識的な形で日本文学と文学の日本語をものにして日本語で小説を書くようになった水村美苗のエッセイで、日本の近代の豊かさ、翻訳文学の豊かさゆえに、現在旧植民地の国々が英語やフランス語などで書くという世界文学の試みに参加することができないというジレンマについて書いてものがありましたね。(中略)
 いっぽう、母国語でない英語で勝負するということについては、本当に歯がゆいものがあります。私としては、本来の土俵は英語という認識ですので、まだまだ努力しなければと思っています。そういう意味では、日本語圏に発信している「むなぐるま」よりも、英語で発信することにもっと力を注いだ方がいいのでは、と思うことはあります。

水村美苗に関してはid:kmiuraさんの文章(id:kmiura:20040926#p1)を是非読まれたい。

あと、むなぐるまさんの新年に:(1)第一の祖国への片想いというエントリーと切込隊長people moving toというエントリーの最後の2段落はなんとはなしに呼応しているように読めた。