腑分けすること 個別でみること ―毎日新聞を題材として―

昨日のエントリ(id:flapjack:20041125)を圏外からのひとことでessaさんにリンクしてもらったのを経由して
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20041125
AcNet RSSから、反応をいただく。
http://www.ac-net.org/rss/showitem.php?itemid=17485

AcNet RSSコメントについて言及があった。毎日新聞の今回の試みを評価するという立場からの批判。最初は毎日新聞が何か変わってきたのかと一瞬希望を抱いたが、社説がぶれていないことで目が醒めた。毎日新聞の幹部であろう岸井成格氏は昨年暮れにテレビで、政府の政策(イラクへの自衛隊派遣)を世論に説得するのが新聞界の使命である、という趣旨の発言をしたのに愕然とした記憶があるので、今回の毎日新聞の意表を突く試みについても素朴には信用できないのが悲しい。今回の「論争」がまるでプロレスの試合のように見えてくるのである。flapjack 氏の見方が正しいことを祈りたい気持ちである。

少し補足しておきたいことがあるのだが、その前に繰り返しになるが、再度まとめておく。
昨日の話で僕が毎日新聞を「高く評価」したのは、
1) 毎日新聞社が新聞社としての公的にある立場にコミットし、その立場を社説で表明していること(それが新聞社内での主流派ということになる)
2) しかし、その公的立場と同じ立場にたたない意見を紙面から排除するのではなく、論説というかたちで含みこみ、公的な立場に対する批評的視線を「内部」に確保させていること。
の2点に関してである。そしてそれ以上ではない。
その他に指摘したのは
a) 1)2)の点において毎日新聞は、欧米のクォリティー・ペーパー型の構成である。
b) しかし、こうした構成が読者と共有されていないために、社説と論説を分離してみると毎日新聞の社説は一貫しているにもかかわらず、読者には1)2)が新聞社の意見の「揺れ」として見えてしまう。
という2点である。

このようにまとめたうえで、補足する点に入っていきたい。
以上のはなしは、議論の内容に関してではなく、異なった立場の議論を序列をつけながらどのように同時に伝えるか、という紙面のプレゼンテーションに関するものだ
毎日新聞がコミットする公的立場が説得力のあるものであるか、という点については、別の議論が必要だ。(その点では、個人的には毎日新聞をあまり評価できない。)
 一方で、圏外のessaさんもいわれるように、毎日新聞に属する個別の記者・記事のレベルでの努力が外から見るぶんには顕著なのも確かだろう。だから「毎日新聞」とひとくちにいっても、いろいろな側面があって、それぞれを個別に見ていかないとダメだと思う。(僕はあまり経済に詳しくないが、毎日の経済関係の記事・社説にはむごいものが多いのではなかったっけ? 最近はどうなのでしょう。)
 そういうことで、もうひとつ個別の話をすれば、自衛隊を派遣延長させるか、早期撤退させるか、ということとは少し別のレベルで、上の分類では社内主流派に属する岸井成格氏が、もし、AcNet RSSのコメントで紹介されたように「政府の政策(イラクへの自衛隊派遣)を世論に説得するのが新聞界の使命である」と述べたのだとすれば、かなりダメなかんじがする(とくに「新聞界の使命」という部分が)。「新聞界」は多様な議論に開かれているわけで、「新聞界」全体が政府の政策(それが個別の政策であろうが)にコミットするのは全体主義以外のなにものでもない。それだけは絶対にあってはならないことである。「毎日新聞は政府の方針を支持する、したがって世論をそのように説得したい」というのなら、まだ話は別である(その新聞社の方針に賛成するかどうかは別にして)。以上は岸井氏が「新聞界の使命」という言葉を実際につかったとしてのはなしだが、それぐらいのことを踏まえてくれないのなら「クォリティー・ペーパー」の論説委員には値しない。
 そんなこんなをふくめてそれでも、僕が毎日新聞を評価するのは、こうした個々のさまざまな動きが見えてくるところだ。そういうのが見えるのはかえってマイナスだというふうにみなす向きが多いが、でもどんな組織でもそのなかには個々人がいて個々人はそれぞれに違ったことを考えているのが現実なのだから、それを見せないようにするのは単純に不健康だと思う。もちろん公的な指針は必要だが、個々の動きが見えてさえいれば、個々人で連帯は可能になる。見えないから個々人が孤立するのだ。

 昨日のコメント欄でgachapinfanさんに書いたのだが、ある程度こうして、いろいろ腑分けして、複数の観点を比較考量して、そのなかでどの点がより重要なのかを考えようとすれば、絶対的に紙数が必要になのだ。日本の新聞の論説は数という点から長さという点でもぜんぜん足りないと思う。