毎日新聞の論説・社説の「揺れ」について、あるいは毎日新聞をクオリティー・ペーパーとして読む

ここのところ毎日新聞が、自衛隊の早期撤収派と派遣延長派の議論を「交互に展開している」(ととりあえず言ってみよう)。

すなわち、以下3つの派遣延長を支持する社説を出している。

  • 11/19 社説:サマワと日本 引き際を見据えているのか
  • 11/21 「社説:サマワと日本 「緊密さの罠」に陥らない知恵を出せ」(論説委員・高畑昭男執筆)
  • 11/23 社説:視点 サマワと日本

    それに対して早期撤収を促す論説記事が出ている。

  • 11/22 視点:陸自を早期撤収し「追従」脱した支援を 布施 広

    これについて、これらの記事のいくつかをリストしたAcademia RSS Projectの中の人はこのようにコメントする。

    21日以来の毎日新聞の記者どうしの「紙面討論」は、何を意図したものか。社内のイラク派遣反対派にも発言の場を与えはするが、社説欄はイラク派遣延長を前提とした議論で一貫している。イラク派遣延長を批判する意見を紙面に掲載する意図は何か。最後に、イラク派遣延長意見で締めくくれば、単にイラク派遣延長を主張するよりも、はるかに世論を操作する効果は大きい。どっちの主張で議論が終わるか注視したい。
    http://www.ac-net.org/rss/showitem.php?itemid=17233

    また、水瓶座さんはこう述べる。

    Commented by 水瓶座 at 2004-11-23 09:30 x
    4大全国紙の中で一番がんばっているのが『毎日』だと思いますけど、論説の「振り幅」がいかんせん大き過ぎるのが難点かなあと思います。いち『毎日』読者として。
    志葉玲さんのブログのコメント欄》

    ジャーナリストの志葉玲さんはこう述べている。

    要するに、両論併記ってやつですね。これだけ違う主張が社説として間を置かずに出てくるところが、毎日新聞の面白いところかもしれません。社説なのに、署名入りというのも面白いかと思います。(以下略)
    http://masagata.exblog.jp/1134580

    毎日新聞は、欧米のクオリティー・ペーパー型の社説と論説の構成を目指しているように思われる(それはすばらしい)のだが、毎日新聞のなかでも、欧米のクオリティー・ペーパーがどのような論理で、社説と論説の構成しているのか、という点について理解しているように思えない。これはあくまでガーディアンとかの読者としての僕がこうだろうと理解していることで、内部の人には別の考えがあるのかもしれないが、とりあえず僕の考えを書いてみる。
     たとえば、欧米のクオリティー・ペーパーでは(たとえばガーディアンでよい)
    1)論説記事(comments)は、社内の論説委員(というのかどうかしらんが)と社外の人の両方が書いている。論説記事はもちろん署名記事である。
    2)社説(leaderあるいはeditorial)はもちろん社内の人が書いているわけだが署名は付いていない。

    こうすることの意味は何か。それは紙面に載せる議論の多様性を確保するとともに、その新聞社が新聞社としてとる考えを展開する、つまり議論の多様性と一貫性の両方を確保するためとかんがえられる。新聞全体としての意見とは異なっていても重要であり読者が読むべきであると思われる議論は、論説記事において載せることができる(それは社外の人であろうが社内の記者・論説委員であろうがかまわない)。社説は、社としての議論を展開するべきところなので、あえて署名記事にしない。というのは、社説を署名記事とすることで、そこでなされた主張の責任が新聞社全体にかかるというよりもその社説を書いた個人のほうに分散してしまうからである(もちろん社説である以上新聞社の責任というのはかわらないわけだが)。
     
    そういうふうにかんがえると上で引用したAcademia RSS Projectの中の人のコメントは、特に後半は違うと思う。後半のみ再度引用する。

    イラク派遣延長を批判する意見を紙面に掲載する意図は何か。最後に、イラク派遣延長意見で締めくくれば、単にイラク派遣延長を主張するよりも、はるかに世論を操作する効果は大きい。どっちの主張で議論が終わるか注視したい。

    こう書くとき、この人は「新聞はひとつの見方で一貫していなければならない」ということを前提としているように見える(同じことは水瓶座さんにもいえる)。最後の一文ではどちらかが勝って議論が統一されることを前提としているのである。

    日本では、ひとつの組織のなかに複数の異なった意見が存在していることはまるで悪であるかのようにいわれることが多い。
    少なくとも組織の外部にでる意見はひとつでなければならないのだ。もちろん「公的」にはそうであるべきだ。
    僕が問題だと感じるのは、その「公的」な側面がすべてを塗りつぶしてしまわねばならないというケースが多いことだ。すなわち、その組織のなかで当然のようにあるであろう個々人の多様な意見というものが、「半=公的」なかたちででてくることが比較的少ない、ということである。
    今では、たとえば2ちゃんねるでもいいしブログでもいいし通じて、そうした個々人の異なった議論を以前よりも目にすることは多くなった。けれども、それは完全に「私的」な領域でなされている発言であり、組織の内部にいる人格とは別人格として発言しているケースも多いだろう。
    ただ、今ブログで実名を使い自分の専門分野で自分の意見を公にしている人も増えてきた(このあたりは前に津村さんの技術系サラリーマンの交差点で議論されたことだろう)。そういう意味でブログは「半=公的」な領域を作り出しているように感じている。それはよい。
    しかし、これは「公的」な組織のに作り出されている「半=公的」空間である。これが今のネット空間ではないかと思う(これは最近切込隊長と湯川氏との間で交わされた議論ともかさなると思う)。そしてこの点で切り込み隊長のいうように、ネットの影響力は限られている。
    この「公的」な組織のに作り出されている「半=公的」空間はこのまま成長していくべきだと思うけれども、それと平行して、ある意味でもっと重要なことは、「公的」な組織のその内部に「半=公的」な側面が作り出されていくことだと思う。

    ここでとりあげた毎日新聞の論説・社説の「揺れ」の話、そしてそれに対する反応は、まさにこの文脈で理解される話だと思う。
    すなわち、新聞社は「公的」組織であるが、そのなかに、その組織とは異質の意見を「半=公的」に含みこんでしまうということが、論説記事の機能であったりするのだ。それは欧米のクオリティー・ペーパーを読んでいれば、わかってくる感覚である。たとえばある論説記事を読むと「あ、これはガーディアン的な論説じゃないな」とわかる。たまには社説とまったく異なったことを言っている論説もある。しかし、読者がそれを新聞社の議論の「揺れ」と理解することはないのである(もちろん新聞社の議論それ自体が変わってきたりするという揺れはあるが、それとはこれとは別のレベルである)。これは「僕らの普段見ている見方とは違っているけれども、こういう見方もあるわけね」という異質なものに触れる機会なのである。

    しかし、今回の場合、毎日新聞の読者もそして書き手もそのようにかんがえてはいない。
    読み手は読み手で上に書いたように「新聞はひとつの見方で一貫していなければならない」と思っているわけで、そうした異質なものが入っていることに慣れていないわけだ(そういうその新聞固有の見方という伝統自体がまだ存在していないといえるわけで、そこがごった煮状態にみえるという話もあるだろうけど。)
    他方で、毎日新聞が社説までも署名記事にしているのは、「公的」なものを「私的」なものと混同しているというように見えなくもない(署名による執筆者の責任自覚といった話とはまったく別のレベルで)。
    自分の意見を「公的」に打ち出しながらもそれとは違ったものも「半=公的」な領域で含みこんでいくという課題がここに見えていると思うのだ。

    毎日新聞をクオリティー・ペーパーとして読むと、社としては自衛隊派遣延長派であって、ぜんぜん主張は「揺れ」てなどいない(「どっちの主張で議論が終わるか」というのは、社としての主張が変わってほしいという希望的疑問としても読めるわけだが、社説が一貫している以上今現在ではそれはないだろう)。早期撤収派の布施広氏は論説委員かもしれないが、非主流派ということである。しかし、それはともかく、少なくともこうした非主流派の見方を、論説記事のなかに入れていくという毎日新聞の姿勢は上に見たような観点から高く評価できると思う。