英語で論文を書く

かみぽこさんが英国留学回想録というシリーズの一番新しいエントリーで、エッセイを最初に書いたときのことを振り返っている。
http://www.emaga.com/bn/?2004110074132443006211.kamikubo
http://plaza.rakuten.co.jp/kingofartscentre/diary/200411230000/
Cf. http://www.emaga.com/bn/bn.cgi?kamikubo

何よりも問題だったのは、英語だと物をちゃんと考えられないことだった。
英語の本を読んでいて、そのまま英語で考えようとしても、なんか12歳くらいに思考力が落ちるように感じるのだ。
例えば、この上の文章など英語で考えると、「ぼく、12さいくらいになっちゃう。えいごで、おもうと。」こんな感じになるのだ。
しかし、私が通っているのは小学校ではなく、大学院である。
こんな思考力では話にならない。
それに、私が大学院で期待されているのは、日本での仕事の経験を学問に生かすことも含まれている(はずだ)。
英語で考えることにこだわって、小学生のようなエッセイを書くことを学部側は望んでないはずだ。
[中略]
日本ってのは「翻訳天国」なのだという。実は英国だと、原本がフランス語やドイツ語の本は英語に翻訳されていない。英仏独語は言語的に近いこともあって、英国人は翻訳本を探すより先に原本を読んでしまう。だから、意外に著名な本が英語に翻訳されてなかったりする。英語に翻訳されてないフランス語やドイツ語の著名な本が日本語には翻訳されているということがよくあるらしい。だから「翻訳天国」だと。*1 (改行は適当に変更)

翻訳天国なのを利用しないと損ということで、かみぽこさんは、関係する日本語の本を数冊読んで頭を整理して、エッセイの構成を作って、それから英語の本を読み始めることにしたそうなのだけど正解だと思う。会話がうまくなろうと思ったら「英語で考える」ようにしないとだめだけど、最初エッセイ書くときは書くときは日本語使わないとダメだと僕も思った。最初に書いたエッセイをあとで読み直してみたら、すごい苦労した割にはユルい書き物でイヤになった。ただ、僕が書こうとしてたトピックとかだと日本語で読めるもの自体があんまりなくて(今もないけど)、日本語でインプットという手を使いまくるわけにはいかなかったけど。今ごろになってむかし日本語で読んだものとかのアイデアが論文(の裏側で)いかせるようになってて、翻訳天国という日本のメリットを生かせるのはむしろこれからではないかと思ってるけど。
 最近は元になるアイデアを磨く思考は相変わらず日本語でやってるように思うけど、それを文章におとして書き上げるのは英語のほうで詰めるようになってて、逆に日本語で詰めて書くという作業をあんまりしていない。日本語ではきちんと文章になっていないアイデアワープロとかエディターに投下しておいて、それをきちんとした英語にしていくわけだ。これは翻訳というわけではない。翻訳の元になる日本語の文章すらなくて、他の人が読んでもちんぷんかんぷんなジブリッシュ(gibberish)でしかないからだ。これを翻訳と呼ぶのなら、同じ状況から日本語で書き上げる作業も翻訳ということになってしまうと感じられる。つまり、書き上げるという段階そのものが原本のない翻訳的である。
 ただ、日本語で最初から詰めて書くということをしていないので、日本語がますます不自由になっているように感じる。しゃべり言葉も壊れてきてて「このままだとセミリンだよ、というかすでにセミリンだよ」と奥さんに言われているのだった。セミリンというのは、semi-lingual が日本語略語化したもので、つまりバイリンガル bilingual が二つの言語を使えることだとすれば、セミリンガルは半分(ずつ)しか使えない、つまり日本語でも英語でも中途半端にしか使えないと。まあ、日本語もほとんど奥さんとしか使ってないから、どんどん退化してきててるしな。来週一度日本に帰るんだけど、そのときにはかなり言葉注意して日本語話さないと。
 まあ、英語で詰めたものを日本語に訳したりほぐしたりという作業はあるんだけど、ここ書いてても思うけど、日本語が不自由と感じるし、英語は日本語よりももう少し不自由ではあるし、やっぱセミリンか。

*1:これはよく知られている話だけどそのとおり。あとフランス人やドイツ人はともかくイギリス人は外国語苦手だから、独語・仏語のどちらかは読めても、独仏両方読める人ばかりではないし。