日本における強い消費者ペルソナの歴史性

労働・モラリズム・分割統治」(deadletter blog)と id:sarutora:20040928#p1 で、モラリズム(道徳主義)についての議論がつづけられている。稲葉振一郎渋谷望の議論によりながら、モラリズムが「勝ち逃げをめざすヘタレ中流」と親和性が高いのではないか、ということ、それから、モラリズムがネオリベラリズムと深く関係しているという指摘がそれぞれにされている。以下は、それの変奏。
 deadletter blogで

いま現在日本で、公務員どころか民間労働者であっても、労働条件の向上を訴えたストライキを行うというのは、支持を得にくいどころか場合によっては非難さえされるような気がする。「労働条件がきついのはみんな同じだ」、「ストによって消費者たる我々がどれだけ迷惑するか考えろ(身勝手だ)!」、或いは、「そんなに文句があるなら会社を辞めろ(自分で起業しろ)」、「会社に依存しているくせに甘えたことを言うな」、そんな罵声の数々がいまにも聞こえてきそうだ。

というときに、こういう道徳主義的な罵声は昔からあったものだろうか、ということを考える。「わがままなこというな」というのは結構昔からあった気がするが、「会社に依存しているくせに甘えたことを言うな」とかいうのは、結構最近(70年代以降?)になって出現した罵声である感じがする。今はみんな一緒に聞こえてしまうけれども、こうしたそれぞれの言い回しの歴史性というのは結構重要ではないかという気がする。
 そういうことを思わされたのは id:sarutora:20040926で以下のような一節を読んだからだ。

酒井隆史の『暴力の哲学』によると、ある時期まで世界中にその名を轟かせていた日本の社会運動、労働運動の中で、アメリカ人記者に「争議行為発明の天才」と呼ばれさえしたかつての日本の労働者たちは、たとえば「コーラスガールがピッチを半音あげたり、電話の交換手が電話の相手に『スト中』ですと朗らかに伝えながらも、いつもどおりの仕事をしたりするスト」など、多様で創造的な戦術を展開させていたのだそうです。(p45)

 これいつの話なんだろうか。なんか別の国のお話のようではないですか。それと、上のような罵声が今にも耳に聞こえてくるような今の日本のあいだに、何があったのか、というのはすごく気になる。
 もちろん、sarutoraさんが引用している渋谷望魂の労働―ネオリベラリズムの権力論』(asin:4791760689)の一節は、そういう歴史の一端に関わっているわけだ。
 言葉を借りつつ要約すると、日本で70年代に成功を収めた「新経営主義」は、顧客による採点表〔カスタマー・レポート〕等を導入することによって、従来の経営者からの(「上からの」)指令を、消費者からの指令に置き換える。上からの指令であるならば、それに対する抵抗の主体や対抗的文化(ストライキを組織するような労働者の結束)を職場内に作り上げるのは比較的容易である。しかしながら、「検査では品質は作れない。品質は工程で作り込め」という品質管理(Quality Control)の「精神」は、労働者が想像の上でつねに顧客と向き合うこと、さらには顧客になりきることを要請する。
 労働者は、消費者のように考えねばならないのだ。下で僕はこう書いた(id:flapjack:20040925#p1)。

頻繁にストをやってて(つっても一段落はしたか)、それでかなり不便なことがあっても、それでも基本的にはストをする人々を支持するのが普通のイギリスに住んでると(ストライキについては一度id:flapjack:20040305で少し書いた、そこでも書いたけど)日本は消費者でいるには天国だと思うけど労働者をやるにはきつい国だとやはり思わざるを得ない。イギリス人がストで生活の一部が不便になっても耐えられるのは、イギリス人が日本人ほど消費者としてうるさくないということがそもそもあると思う。逆に日本では、消費者としての自分と労働者としての自分はほんとは一つのはずだけど、消費者パーソナリティーのほうが日本ではつよいのかなあ、とか。

 軍隊が(「グリーン・ゴッデス(緑の女神)」という名の30年以上も古いポンコツの緑色の消防車で)カバーできるからとはいえ、消防署員がいっせいに給料の値上げを求めてストライキをおこしてしまうことなど(これが去年のイギリス)、消費者のように考えることを内面化させられた労働者には少し想像をこえているのではないだろうか。「ストによって我々がどれだけ迷惑するか考えろ(身勝手だ)!」
 上の「会社に依存しているくせに甘えたことを言うな」というような論理は、またこうした「新経営主義」とは別の歴史的起源をもっているような気がしますが、どうでしょう。といってまた人の知恵を借りようとする(笑)。