言語と論理性の関係について

そうこうしているとid:kmiuraさんのところで盛り上がってた(id:kmiura:20040827, id:kmiura:20040830)。id:Ririkaさんもリファ―してるけど(id:Ririka:20040830#p2)、この話、前にやった話と繋がってる(id:flapjack:20031101#p2とかid:Ririka:20031102#p1あたり)。で、だいたい出されたポイントには賛成。僕的には、id:svnseedsさんとid:fenestraeさんの27日でのコメント欄での発言に特に共感する。つまり、

論理的であること/論理的に文章を書くことが訓練で身につくものだということがわかってない点、もうひとつはそれが重要かつ必要なスキルだとてんで考えてない点。

というのは確かにあるかなあ、と思う。
 ここらあたりでされている話は、本来の意味における「修辞学」(レトリック)の伝統の問題ではないか、と思う。「修辞学」とかレトリックとかいうと、美辞麗句で飾り立て本質を見えにくくする(目的で使われる)ものと考えられることが多いけれども、むしろid:fenestraeさんの言葉でいう、文章における「基本的スタイル」(の訓練)というのが本来の意味だと思う。もちろんキケロに代表される古典的修辞学が今でもそのままヨーロッパやアメリカで教えられているわけではない。しかし、文章における「基本的スタイル」が重要であるという認識において、「修辞学」の伝統は生きているように見える。
 日本にもかつてヨーロッパと違った形ではあるが「修辞学」が存在した。漢文素読を中心とする読み書き教育である(夏目漱石がこうした教育を受けた最後の世代に属するという話を読んだ記憶がある)。こうした伝統的修辞学は明治に廃止されたわけだが、それにかわる「修辞学」は日本の教育には長い間不在であり、今もそのままであるのではないか、と思っている。漢文における「論理」と、ヨーロッパの修辞学における論理とはまた別のものだろうが、しかし、修辞学はある種の論理性を磨くものでもあることも確かだ。
 つまり何がいいたいのかというと、言語と論理性の関係を話題にするときに「日本語が論理的である」とか「ない」とかいう話ではなく、言語と論理性の間に、教育における伝統(教育手法)(の日本における断絶)という項をいれるべきなのでは、ということだ。文章における「基本的スタイル」の訓練という意味における「修辞学」の日本における「復活」は必要だと思う。
 要するに、id:kmiuraさんが

「わかりやすい文章を書くのが一番難しく価値がある」という意識がもっと広まればいいのになあ

ということなのだけれどね。

今日のエントリーはえらい長くなっているがついでに書いてしまうと、id:Ririkaさんが再引用してくれている山形さんの話だけれども(id:Ririka:20040830#p2)、この間から触れているネスビットのThe Geography of Thoughtは、この山形さんの話へのひとつのコメントとして読めると思った。ネスビットは、「論理」と「文化」は繋がっているという話をしている。しかし、「言語」と「論理」を一気につなげてしまうのは違うという点で、ネスビットと山形さんは一致していると読めると思うのだ。