連想ゲーム

どうにも頭がゆるゆるだけれども、とりあえず更新。
bk1をひさしぶりに見てて、末木文美士が人文・社会・ノンフィクションのところでフィーチャーされているのに気づく(ここ)。彼の『日本仏教史』(ISBN:4101489114)はおもしろかった。いつぞや(2001年だったのか)加地伸行儒教とは何か』(ISBN:4121009894)が売れたときは、これとあわせて読まれればよかったのに、と思ったが。日本人の多くは、自分のからだに身体化されている宗教を、「宗教」としてとりだして考えたことがない。なぜそうなのか、とか、そのことの帰結はどういうことか、とかもいろいろあるのだが、それはともかく、そうか、『日本仏教史』ではふれられることがなかった仏教の近代をかいたのだなあ、とインタビューを読みながら思う(まあ、科学についての言及はちょっとはてなだけどな。ドーキンス『虹の解体』読んでくれつうかんじか)。
 bk1では、彼の『近代日本の思想・再考』連続講義[全4回]』というのも読める(インタビューの最後のページにリンクが貼られている)。第二回から引用しておく。

前近代(封建時代)から近代への転換は、「個の存在」の浮上によって特徴づけられる。「個」の確立こそは、福沢諭吉啓蒙主義から白樺派を含む大正教養主義、さらには戦後の大塚久雄らの近代主義にまで及ぶ理念である。しかし日本では「個」の確立は、常に「個を超える」何者かの探求とセットになってきた。個の確立をぎりぎりまで探求しつくす前に、それは個を超えるものに包摂され、あるいは解消される。(強調はflapjackによる)

ここでいう「個を超えるもの」とは日本ではすなわち国ということだけどな。ゆるゆるの連想ゲームでさらに引用すると、武田徹が鹿児島の知覧にいって、こう書いている。

知覧といえば・・・、やっぱり特攻だが、記念館に行ってもそこは聖戦の自爆テロとの相似性って触れられないし、語られもしない世界である。つらいのは分かるが、そうした共同性のために個々人の生命が犠牲になるという構図の通底性から考えないと戦争もテロも理解できないのではないかと思ってしまうのだが。
http://162.teacup.com/sinopy/bbs(8月4日)