追記

 コメント欄に書きかけたんだけど、ちょっと長くなりそうなんで、コメントを改めて追記のほうに移し、さらに少し書き加えます。
 朝日新聞社とか僕が見たような企業が大多数だとか典型だというつもりは最初からないです。つまり(たとえば「日本的雇用」とかいう)「ステレオタイプ」が全体として事実なのだという意図ではない。にもかかわらず、社会的に影響力のある組織に、そういう部分が実際にあるということに驚くというか、そんなに「ステレオタイプ」があてはまってしまうんだ、っていう。で、僕はそういう雇用形態そのものがよくないと頭から思っているわけでもない。でもなんだかなあという側面があるという話です。十分すぎるほどに(逆に働く人にとって望ましくないほど)「流動」的な状況に据え置かれる雇用形態(たとえば正社員並の仕事をこなしながらずっとフリーターのままとか)が存在する業種もたくさんあるでしょう。ただ、もう少し流動性があったほうが健全なセクションもあるだろう、という話です。
 で、「十分すぎるほどに(逆に働く人にとって望ましくないほど)「流動」的な状況に据え置かれる雇用形態(たとえば正社員並の仕事をこなしながらずっとフリーターのままとか)」が当てはまる人たちは、現状下においては「若者」のほうではないか、ということが玄田有史仕事のなかの曖昧な不安』(中央公論新社とか宮本みち子『若者が《社会的弱者》に転落する』(洋泉社新書y)とかの話だと思います。これらの本については、たいへん短くよく纏めてくださっているyucoさんの書評を参照してください。
http://diary.yuco.net/20040628.html#p01
http://diary.yuco.net/20040629.html#p01
つまり、この流動性のはなしというのは、かなり世代間の利益の齟齬のはなしなのではないか、と思います。流動性が必要なんだけれども、その流動性は、中高年の雇用形態は変更することなくそのコストを「若年層」に転嫁するための方法としてのみ導入されている感が非常につよい。中高年層にしてみれば、流動性をいまさら導入するメリットなどほとんど見つからないのではないか、と。