「ジャーナリストによる学説・学派の理解、あるいはアカデミストがアカデミズムの(内)外に対して見取り図を書くという作業」について書こうとしたんだけど、どうもまとまらないっす。むつかしすぎ。id:sujakuさん、ご期待に沿えずごめんなさい。
 ところで、ちょっくら某国にサッカー見に行ってきます。

 あと、ちょっと下で怒りにまかせてかいてるけど、前にid:Ririka:20040414のコメント欄で書いたことはもう一度繰り返しておくべきかなあ、と。一部引用します。

ただ、カルスタ・ポスコロだって、人文系の学問が社会に繋がるための、つまりタコ壷から抜け出るための、装置として脚光を浴びたという点はあったのではないかな。にもかかわらず、狭義のカルスタ・ポスコロが(実際にそういう講座が大学にできたわけではないけれども)制度化(大学院生が問題意識を手頃に刺激され論文を書くネタ化する)して、タコ壷化したという側面もある。こうしたタコ壷化の一方で、カルスタ・ポスコロの問題意識は意味がないとは僕は思ってなくて、むしろそれを踏まえてないと話にならないと思う。(ただ、こういう流れだって、人文学(あるいは社会学でさえ?)の内部であまねく知られているとも思えない−−したがって、バブルというほどのことであったか、というとそれも疑問だが−−ので、それら全てをタコ壷といったっていいのかもしれんが)。で、カルスタ・ポスコロ的なものも踏まえて前にいくための力技として北田本はすげーな、と思っているわけです、とりあえず。