「みんな」論というよりも、ある状況の読み込みについて

id:Ririkaさんから、id:flapjack:20040530へのコメント欄と、id:Ririka:20040530#p1にて反応をいただいたので、それに対してまた応答してみます。
 Ririkaさんが、5/30日のコメント欄で、

そこまで「レトリック」を排斥せんでもいいだろ。」というのが、そもそもわたしがこの件の感想を書くことにした動機です。

と書かれたのは意外だったです。別に他に何かを動機として想定していたわけではなかったけど。でもそうきっちり書いてくれると確かにわかる。僕は最初から「みんな」一般ではなくて、特定の「みんな」の使われ方に関心があったから(それはid:Bonvoyageさんの読者はともかく、id:Bonvoyageさん自身もそうだったのだと思うけれど)、id:Bonvoyageさんの「大学の教官」と内田樹を比較する(あるいは、そういうふうに見えるように書く)のはアンフェアではないかと思った。

その真意は、essa さんのような「意識のある」人でもこんなに使ってるよ、「みんな」を使ったからといって、それがなんでも「切断操作」と深く関連してる(id:Bonvoyage:20040517#p1)とか、「「みんな」問題(排除/村八分/バッシング/いじめ)はそれと直結してます」(hizzz さん、id:Bonvoyage:20040520#c)、って話に「発展」していって、まるで、排除を排除で仕返しするみたいなのってなんだかなーって、伝えたかったから。(id:Ririka:20040530#p1)

て書いてるけど、最初からこれを書いていてくれれば、僕のアンフェアという印象は相当に弱いものだったと思う。
 id:Ririka:20040527#p1を読んだときに、内容の問題(matter)ではなく書き方の問題(matter)として、「結局これは何を言いたいんだ?」とRirikaさんの「真意」を探るために無駄な脳内労働をさせられている感じがして、それで、「もういいや、この文章でオレが感じることを書いてしまえ」と思った結果としてああいう書き込みになった。(だったら最初から読まなければ?なんてのはとりあえずなしね。)
 まあ、最終的にはほぼ同じ立場であることが確認されたわけだけれども、僕的にはえらいコストがかかったなあ、という気がする。