共同体圧力の増大−降りる自由(続き)

で、id:svnseedsさんのところで出ていた「降りる自由」を主張する必要があるような社会状況があるかどうかということだけれども、「降りる自由」という言葉をつかうかどうかは別にして、責任を無限定に押し付けてくるような状況が日本に目立つのは確かだと思う。
 そういう状況は、昔からもある程度あって、それが「世代」とか「歴史的」とかいった理由。もう少し具体的には(とはいってもものすごく粗くだけれども)
1)新左翼の歴史
2)「世間」、あるいは「世間」的な日本社会
ということを考えていた。1)はもういいでしょ、とりあえず。2)に関しては、「世間」の縛りというのはもちろん若い世代にもあると思うんだけど、気づかないだけで気づくと「降ろさせてくれない」関係の強要を身に染みるのはやはり上のほうの世代ではないか、と思ったので「世代」という言葉を使った。僕も十分にわかっているとはいえないし、そういう意味では僕は下のほうの世代に属することになると思う。何歳以上何歳以下とかいう実定的な意味で世代といったつもりではない(そうとられるのが普通なのは了解:id:hizzzさんがいうように文化資本と言い換えてもいいかもしれない)。(「世間」についてはこの日記でも何回か触れているので、上の検索窓を使って検索してください。)

そういう「世間」そして「世間的社会」の実例として(と例として持ち出すのもどうかと思うんだけれども)、最近あった浅田農産の会長夫妻の自殺をどうしても考えてしまう。この話について「責任」との関連で触れているのが以下。
http://deadletter.hmc5.com/blog/archives/000027.html
(URL間違えてたので訂正しました)。一部だけ引用というかんじにならないので、是非参照していただきたい。それから、武田徹の「オンライン日記」
http://162.teacup.com/sinopy/bbs
(3月8日の項)も参考に。

僕の言葉で言い直せば、(例えば業界という)「世間」の論理のなかで縛られるのは誰でも(別に日本でなくても、たとえばイギリスでも)ある程度そうだと思うけれども、本当は「社会」というものは「世間」を越え、世間のなかにトラップされた個々人を救う機能をもつものだと思う。というかそういうものとして「近代社会」は発展してきたのだ。しかし、日本においては「社会」はかならずしも「世間」を抑制するという機能を果たさず、むしろ「世間」的に振る舞い責任を際限なく押し付ける「道徳的総会屋」を演じる(たとえば、マスコミは「社会」の側であるべきだが、「世間」的に振舞う)。本当は、「社会」の側から浅田農産の会長夫妻に「降りられるよ」という回路を準備すべきだったしできたはずなのだが。。。

1)、2)に加えて、3)東浩紀のいうテクノロジーと融合したネオリベラリズム的状況というのは、確かに存在し重要な問題だと思うのだが、それ以前の問題として1)、2)という問題が実は非常に大きいと僕は考える。

いずれにせよ、現代の日本ではこれら少なくとも3つが融合しつつ「共同体圧力」(id:kmiura)を強めている気がするのだ。

(こういう話とid:Ririkaさんのいう話は次元が違う話だと思うので、無理にすり合わせる必要も感じないという気がしてます。)

来週以降数週間日本に帰ります。