追記

結論部を書ききれていなかったので追記すると、東氏が「降りる自由」を言わざるをえなかったのは、上に書いたような左翼の尋問的議論(「降ろさんぞゲーム」の道徳的暴力)*1を予期していたせいだと僕は勝手に考えてます。先行する左翼世代に対する予防線を張らざるを得ない、と。
覚えておかねばならないのは、これもまた北田さんのところからもりあがった「運動論」も、この「降りる自由」の議論と同様に、旧左翼世代の歴史の清算の問題であるということです。なぜ「運動」に僕たちはこれほどわだかまってしまうのか。やりたきゃやりゃあいいし、やらなくてもかまわないし、考えたければ考えればいい。考えながら参加したっていいし参加しなくてもいい。デモだって踊ればいいし楽しめばいいし、同時にまじめだっていい。どれか一つである必要は全然ない。単純に、もっとたくさんの人がそれぞれの、いろんな方向に動けばいい。わだかまってしまう必然はないはずなのに。なのだけれども、なぜかわだかまってしまう。わだかまるだけならいいんだけど、最後にはお互いの足を引っ張り合ってしまう(id:flapjack:20031023)。それは、そういう(例えば僕自身も具体的にはまったく体験していない)左翼的思考の歴史に規定されているということなのだと思う。
で、東さんとか北田さんとかは(もう、さん付けになってきてるけど)は、そういう左翼的思考からどうやったら自由になれるか、というようなことを考えているのだと思う(それをいうなら、稲葉御大の『経済学という教養』だってそうだ。)でも、もっと若い人たちにしてみれば、たとえばid:Ririkaさんがいうように

けれども、こう疑ってみることも可能ではないだろうか。つまり、「いちいち言語化」などしなくてもあたりまえにある「降りる自由」というものを、「あえて」言語化することで、その自明性を読者に疑わせ、いったん宙づりにしてみせた上で、またその「降りる自由」をつかみなおす、という奇術を演じて、あたかも、「降りる自由」というものが絶えず「ある」のだと主張しなければ、個人の手から奪い去られてしまう(誰に?)あやういものであるかのように見せる、演出なのではないか、という疑いだ。(id:Ririka:20040222#p2)

と読めてしまうだろうし、またid:hizzzさんのように、

やー、昔から社会派然としてそういうこという人がいるんだけど、そんなの降りたきゃサッサと降りればいいんだし、昔から多くのひとは実際にそうしてきた。それこそ自己判断自己責任で。なんで自分が降りるのにそんなこと、いちいち自己宣伝してまわって他者容認とりつけなくっちゃ自分は降りられないって回りくどいことにしちゃうんだ?(id:hizzz:20040223#p1)

というふうにも見えてしまうだろう。こいつらは、一人大芝居をうっているうえに他の人を巻き込んで(あるいは巻き込もうとして)なんなんだ、と。
つまり、左翼的プールという水溜りのなかで「おぼれがちな人たち」にしてみれば、東さんや北田さんのやってる作業は非常にありがたい作業なんだけれども、プールの外にあらわれてきたさらに新しい世代の人からすれば、関係ないよ、と。
そういうふうに僕には見えます。見当違いの景色を僕は見ているのだろうか。
この景色からすれば、東さんや北田さんはこの部分では報われないなあ、と思う。だって、そもそも彼らがそういう歴史をつくったわけではないのだから。でも、ほんとうに重要なことは、こういう些細な世代間の問題ではなくて、もっと先にあるわけ。僕は、その先を見たい。
そういうことを、今日と明日、行われているイギリスの大学教員のストライキのなか、思うのだった。

*1:これは、内田樹の言葉でいえば「審問」的話法と密接に関係しているといっていいでしょう