降りる自由(続き)

id:flapjack:20040224#p3のコメント欄の続きです。
とりあえず、kmiuraさん宛にかいてたんだけれども、書いてるうちに、hizzzさんとRirikaさんにも宛てている感じになってしまいました。

人の考え(思想)はある歴史的状況のなかから(あるいはそれに対して)生まれるものである。だから、歴史的状況との関連においてその考えを見ようとすることは一つの見方だし、id:flapjack:20040224#p4で書いたのはそういう見方によります。

歴史を見れば、今出てきている考え(あるいは出来事)が、過去の状況を反復しているように思えることも多くあるし、そういうことを発見することが歴史の楽しみでもあるし、現在を相対化することでもある。id:kmiuraさんが、丸山真男吉本隆明に言及されたのはそういう文脈だと思います。(kmiuraさんは彼らに関しては小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社、2002年)を念頭におかれていたと思うので、コメント欄に「読まねば」と書きました。)

ただ、そういう歴史的な見方「だけ」だと、kmiuraさんがいわれるように、「歴史的な文脈による規定←→歴史的な反復」という循環が罠に見えるかもしれないです。(そういう認識は逆に、「ああ、なるほど、僕(たち)はそういう構造のなかに放り込まれてたんだな」とわかってかえって解放された気にさせてくれることもあると思いますが。)

あそこで書いたことに問題があるとすれば、北田さんと東さんの議論[が]すべて歴史的文脈に還元されるかのように思われる余地があるということです(もう一つあるんだけどそれは措いておきます)。僕が書いたのは、[いろいろある歴史的文脈のうちのひとつの、さらに]ものすごく大雑把な見取り図にすぎなくて、そのなかに、例えば北田さんの本『責任と正義』が置かれうるとしても、中身も読まないでいえる程度のことです。

中身についてですが、偽日記 04/01/06と04/01/07で要約されている第1部だけ見ても、[僕が述べたような]これまでの歴史的文脈をとりあえず措いて、そのものとして読まれるべき本ではないかと思います。とくにid:Ririkaさんが

そこに新たにどのようなコンセンサスが築かれていくべきか、ということをもし考えたいとしたら、「責任=応答可能性」というなんだか曖昧な、だだっ広い領域を、「結論まずありき」から逆算したのではない、分割の方法がいるんじゃないのかな。(id:Ririka:20040226#p3)

というのなら、期待できる本ではないかと。まあ、Ririkaさん的には東浩紀のほうが直接の関心の的なのかもしれないけれど。[ただ]「そういうのなら絶対に読んでから何か言え」というような「降ろさんぞゲーム」を自分自身で展開するつもりもありません(笑)。そもそも僕自身読めてないわけだし。単に、ここで僕が書いたことでもって、北田本がスルーされてしまうというのは意図ではないということです。むしろイントロとして読んでほしいというか(あんまり[よい]イントロではないとしても)。