自衛隊員の死をめぐって

渋川修一(id:shibudqn)のテクストから
http://www.sfc.ne.jp/~shibu/diary/?date=20040202
東浩紀
http://www.hirokiazuma.com/archives/000055.html
へとび、さらにあちこちで言及されている件に関連して、先日から気になっているテクストを以下のようにクリッピングしてみた(BBCについてはやく書くべきなのだが、こっちが先になってしまった)。

唐沢俊一 (2004年1月17日)

平和を願い、人類が愛につつまれることを望む多くの反米反戦派の心の底に、“こいつら、早く攻撃を受けて死ねばいい”というドス黒い期待が渦を巻いていることであろう。

http://www.tobunken.com/diary/diary.html


稲葉振一郎 (2004年1月23日)

とは言え裏モノ日記1月19日の唐沢俊一ほどには楽観できない私である。17日には「平和を願い、人類が愛につつまれることを望む多くの反米反戦派の心の底に、“こいつら、早く攻撃を受けて死ねばいい”というドス黒い期待が渦を巻いていることであろう。」などと書いているが、ところがどっこい、反対側にも同じことを考えている奴らがいるのだ。たとえばここ[id:johanne:20040115#p1にリンク]を参照。

http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/books/books.htm


内田樹 (2003年11月4日)

つまり、たいへんに皮肉なことであるが、イラクへの派兵に際して、今後、日本が「ふつうの国」になって自衛隊を米軍の同盟軍としてじゃんじゃん海外派兵させたがっている人は「自衛隊員が(愛国的機運が高まる程度に)死ぬこと」から利益を引き出し、アメリカの世界戦略への追随を嫌う人々は「自衛隊員が(厭戦気分が高まる程度に)死ぬこと」から利益を引き出すことができるのである。
つまり、いまの政治的決定プロセスとメディアを占有している人々は(無意識的に)自衛隊員が「死ぬ」ことを望んでいるのである。
違いは、「適正な死者数」をどの程度に設定するか、という計量的な問題だけである。

http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3949/03.11.html


議論の発端になっている朝日の記事が、まさに唐沢俊一の述べているような「期待」を表象しているようにしか思えないのは僕だけではないだろう。しかしもちろんそれだけが全てではないのは、稲葉と内田が述べるとおりである。

渋川の発言に触れるならば、自衛隊派遣についての政治的決定に対する賛否と、(賛否にかかわらずこのようなくだらない政治過程を通じて)派遣されてしまう自衛隊員に対するサポートの念はきりはなされるべきではないか、という気がしている(というのはイギリスにおいて得た感覚であって、正しいと言い張るつもりはない:異論を歓迎する)。「職業軍人」として命令に従うのはそれなりの職業的モラルに則ってのことと考えられるからだ(全員が自発的に参加を申し込んだというわけでは必ずしもなかろう)。