「政治意識」から「情報回路」へ

id:kanryo:20031115におけるid:kanryoさんとbewaadさんとの対話以降、「政治に対する関心」について考えている。bewaadさんは

イギリスにおいてより素晴らしい番組があるとして、それはかの国の政治文化の熟度を示すものでもあるのでしょうが、経済的な貧しさをある意味表しているのかなという気もします。』

といわれ、id:kanryoさんも、

▼私は「経済的な貧しさ」論に心情的に同意です。もっと言えば「(経済的な)危機がないとどうにもならない(あるいはどうにもなっていない以上まだ危機ではない)」のではないかと思っています。この点で経済危機から受ける影響が比較的大きいと思われる「比較的豊かなミドルクラス」の政治意識が高まるのは説明できるのではないでしょうか▼要は、今の日本でも、危機が認識されれば「合理的無関心」状態から政治に対する関心が上昇することは大いにあり得るとおもいます▼その危機とは経済的であることが多いと思いますが、「戦争」というファクターがどういう影響を与えているのかも興味深いところです。イギリスにしろアメリカにしろ第二次大戦後何度か戦争をしていますが、日本はそれがなかった。今回イラク自衛隊が行くにしても(本当に行くかどうか知りませんが)、日本の国策としての戦争ではない。たとえイラクで犠牲者が出たとしても世論は大きく動かないのではないでしょうか。

と述べられる。

それに対しての僕の考えを改めて述べてみたいと思う。そのまえに基本的な立場を述べるなら、僕は、「それをいったところでなにか生産性があがるか」、「より生産性の高い議論とはなんだろうか」という点が重要だと思っている。

例えば、id:kanryoさんのところのコメントで、「政治文化の熟度をイギリスの国民の民度そのものに直接帰すような議論はしないように心がけているつもり」と述べたときに意味していたことはこういうことである。つまり、単純にイギリス国民(あるいはイギリスのミドルクラスの人々)の民度が高く、日本の国民の民度が低い、といったところで、「はあ、そうですか、それはよかったですね」ということにしかならないだろう。生産性が低い議論というのはこういうもののことをいう。それは避けたいのだ。

同じことが、id:kanryoさんとbewaadさんの「政治意識」論についてもある程度いえないだろうか。日本において、国民、あるいは絞って「ミドルクラス」の政治意識(あるいはそれに先立つ危機意識)が低いとして、それをいったところで何に繋がるのだろうか、ということを考えるのだ。危機を待望する、ということなのだろうか。


僕の問題意識は、そういう国民の政治意識一般を問うまえに、メディア・政党を代表とする情報回路の問題を問うたほうがまだ生産性が高いんじゃないの?ということだ。たとえば、ごく最近でも、なだいなだの老人党に対しての急激な関心の上昇といったことがあった。これだけ見ても、多くの人が単純に政治に関わる回路の欠如を意識していて、ただ、うまい回路を見つけられていないということがある(だからこそ、老人党への関心が高まった)といえるのではないだろうか。

イギリスに関して僕がいっていることもこの文脈で整理しなおすことが出来る。イギリスにおいても政治的関心の低下が見られるけれども、階級別、関心別の新聞編成、テレビ・高級紙における高度な報道の存在といった点において、日本についてよりは既存の政治の回路がうまく機能していると。

そして、そういう回路が見つかれば、その回路を通じて、人々が自分たちの関心が高まることもまったくないとも言い切れないだろう。そもそも、関心とかいうものは最初からあるものではなく、人に言われて「そうそう、そういうことあるんだよ。あれ、なんなんだろうねえ。」とかいうことで高まるものだったりもするのではないか。だから、まず情報の流通回路が重要だと思うのだ。

この点に関して、bewaadさんは

でも、党内の議論もそれなりに報道されてますよね・・・。もちろん報道されないものもあるけど、そんな会議だって党本部の廊下では記者が聞き耳立ててて、隠匿されて国民から見えないってことじゃないわけですし。

といわれ、id:kanryoさんもid:kanryo:20031117のコメントで

政治の世界でも政策の元になる提言や調査はシンクタンクや大学等の研究者からなされており、結構公開されているのではないでしょうか。もちろん政策分野にもよりますけど

と同じことを言われている。

で、僕もそれには同意する。ただ、僕は、公開されていないとか隠匿されて国民から見えないということをいいたいのではない(もちろんお二人とも僕がそう言っているといわれているわけではないが)。僕の重点はむしろ、すでに公開されている情報が、メディアを通じてうまく情報が縮約されていないのではないか、というほうにある。*1

ただ、この論点を実例を通じてうまく示すことが十分にできていないとは自分でも思うので、その点では少し忸怩たるものがあるのだが。ただ、これに非常に緩やかなかたちで関わる問題意識が、内田樹先生の日記に書かれているので、それを前日付けの日記として一日分まるまる引用させていただく。 id:flapjack:20031119*2

さて、以上の点はそれでとりあえず措くとして、もっと根本的な問題がbewaadさんからは提起されている。すなわち、政治的無関心さそのものの問題は、資本主義社会の進展に伴う構造的なものでありその点において、日本はアメリカとともに人類史の先陣を切っているのかもしれない、ということである。これは、いなば大人*3もどこかでふれていた話であると思う。この話に非常に僕は関心がある。しかし、この点と上に述べたような僕の問題意識がひょっとすると矛盾するものであるのではないか、ということも考えられる。しかし、kanryoさんのところで述べたように、必ずしも明確な考えを形づくれてはいない。


ほんとは、あちこちでオーバーラップする関心がはてなのなかで表明されている日本語と外国語の話について書きたかったのだが、また今度。

*1:id:kanryo:20031115コメント欄「日本にひきつければ、「それなりの報道」の質が高くないということが日本における問題なのだ、といいたいわけです。」

*2:内田先生(にかぎらず)問題でしたら言ってください。

*3:http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/books/books.htm