内田樹の日記より

[2003年]6月19日

蒸し暑い日々が続く。晴れ間がないので、洗濯物が風呂場の床にだんだんうずたかくたまってきた。天気に文句を言っても始まらないが、梅雨というのはじめじめして困ったものである。

体調もぱっとしないし、頭もぼわんと濁っている。机にむかってもまったく仕事をする気にならない。ずるずると床を這ってソファーに寝ころんでTVを見る。まったく面白くないので、二秒おきにザッピングする。

どうしてこれほどつまらない番組をこれだけの金と手間暇をかけて膨大なエネルギーを蕩尽しながら放映しているのか、私には日本のTV関係者とそのスポンサーたちの意図がまったく理解できない。

遅くとも十年後に民放TVは業態としては消滅するだろうと私は思っている。

TVの現場のことはあまりよく知らないが、「有用有意義な情報」を発見し、選択し、リファインしたかたちで伝達するという「メディア」の本来の使命を自覚している人間はほとんどいないように思われる。

たいした予算も手間暇もかけない番組でさえ、TV局の人間は出演者を「見下す」ポジションにいる。

妙に真剣な顔で機材をチェックしたり、スタッフ同士の打ち合わせに忙しく、いざ収録が始まっても、話の内容を「何も」聴いていないで、音声やライティングや残り時間のことばかり気にしている。

私が一回だけTVに出たとき、ディレクターもカメラマンもタイムキーパーも、みごとにひとりも私の話を聞いていなかった。

彼らは精一杯つまらなそうな顔をして、「オレはお前の話なんかに何の興味もないんだよ。オレに興味があるのは、TVカメラに技術的に破綻なく、決められた時間のあいだだけそこにあるものを映すということだけなんだから。そしてそのことの方がお前の話の何百倍も大切なことなんだよ」という無言のメッセージを全身から発していた。

だとすると、彼らがいじくっているものは「メディア」ではない。

それはTVという名の「物神」である。

だって、「現に伝えているもの」の内容より、「決められた時間分だけ『何か』を放映する」というルーティンの維持の方を優先的に配慮しているんだから。

彼らは自分たちが「何を」mediate するのかには興味がなく、自分たちがmedia「であること」がうれしくてしかたがないのだ。

とんねるずの「みなさんのおかげです」を見ていたら、石橋貴明木梨憲武も(ちょい役の)ルー大柴も、全員が「出演者」ではなく、「番組制作者」の立場に立つことに固執していた。

彼らはカメラが向くたびに、自分たちには画面に何を映すのか、どういうふうに番組を仕切るかを「決定できる立場にいる」ということを繰り返しショウオフしていた。

おまけにプログラムは芸能人の年収当てクイズとフジTVの女子局アナと高原直泰の「くわずぎらい」対決。

これは実にポストモダン的なメディア状況であると言わねばならない。

このときTV画面に映し出されていたのは、「TV画面に映ることができる人間/あまり映ることができない人間」を差別化する権力はTVがこれを占有する、というメッセージ「そのもの」である。

いまやTVは「このTV番組においては誰が『映るものと映らないもの』を差別化する権力を持つのか、あなたには分かるか?」という問いを間断なく視聴者に向けて投げかけ、答えを促すことをその主務とするようになった。

末期的だ。

TVはいまや「TVに奉仕するメディア」でしかない。

そのようなメディアに集まってくる人々もおそらくは「他人に奉仕すること」より「自分に奉仕させる」ことを優先させるタイプの方々で占められていることであろう。

ある業種に「他人を、自分に奉仕させることが好きな人間」がダマになって集まる、ということがある。(バブル期の銀行、不動産、リゾート開発なんかがそうだ)

それはその業種「ごと」ゴミ箱に棄てられるために集まってくる、ということを歴史は教えている。

なんてことを書いたから、二度とTVから出演依頼は来ないな。(頼まれても、どうせ出ないけど)

出典:
http://village.infoweb.ne.jp/~fwgh5997/diary//2003/03.06.html