英語と日本語 「開かれた抽象性」について(続き)

同じく、昨日の続き。誤解があると困るのできちんと強調しなければならない、と思ったのは、現時点の日本語のなかに「開かれた抽象性」が存在していないと僕は思っていないということだ。

あちこちにおいて、たとえば、このはてなにおいても、そういう「開かれた抽象性」を志向した日本語をみることができる。重要なことは、こうした志向をネット上あるいは一部の言語表現のなかにとどめることなく、あらゆる方面において推し進めることだと思う。特に政治という領域において、このような志向を欠いた言葉がまだ少ないということなのだ。*1

*1:こうした「開かれた抽象性」を志向する言語が、上で欠いたようなミドルクラス的、あるいはブルジョワ的息苦しさに繋がっていくというような指摘はもっともだし、そのことに僕は気づいている。しかし、そういう議論のうえでの先回りが多すぎるということを、僕は日本的シニシズムの特徴と考えている。http://d.hatena.ne.jp/flapjack/20031023#p1参照