休むことも、自分で自分を規律するということなのよ。(続き)

昨日あげたこの言葉だが、註釈を加えておく必要があるだろう。まず、この言葉を僕に残してくれた感じのいいおばさんというのが「ミドルクラス」あるいは「アッパー・ワーキング・クラス」の人であることである。ばりばりのワーキングクラスの人からself-disciplineなどという言葉はふつう出てこない。このミドルクラスの価値観がいわゆるブルジョワのそれである。

上の続きということであるが、次に、この言葉が、いまや有名なフーコーの「監獄の誕生」の話に繋がっていることである。僕がこの言葉に覚えた感動の一部には、self-disciplineは仕事にだけ適用されるのではなく、休みも含めた生活全般にまで及ぶものなのだなあ、ということだ。自らの生活全体に及ぶ自らの監視の目。それは、ミドルクラスの生活哲学そのものである。

最後に、この言葉を僕が電車でたまたま乗り合わせた人から聞いたということからわかるように、この「近代」の価値観は現代のイギリスの人々の一部のなかに強く生きている、ということだ。

もう少し敷衍すると、日本人の働きすぎと揶揄される労働倫理とこのイギリスのミドルクラスの労働倫理が、全く異なるのは、後者が、生活全体を規律化し、さらに休みも規律の一部として取り込んでいるという点だ。*1

*1:下層ワーキングクラスの人々は、そういう自己規律的要素を、比較的には、欠いている。はたらくけど、最低限はたらく、という感じね。一方、ミドルクラスとワーキングクラスの両方について全般的にいえるのは、「自分の領分」に対する(つまり対自分)意識が高いわりに、「客に対するサービス」という(つまり対他)意識が基本的に欠けている、ということ。もう少し正確にいえば、自分が相手をしているその当の客に対しての意識はまだあるのだが、それを待っている客は「客」ではないので、えんえん列になっている人を待たしていても気にならないらしい。最近になってようやく少しだけ変化が見えるが。