コミュニティーのメジャー化

network styly *より
http://ellington.gel.sfc.keio.ac.jp/nsly/mt/ns/000760.html

ただ、はなしをブログに戻しつつ、簡単に振り返ると、ちょっと以前のアメリカのblogが盛り上がる過程を見ると、日本のネット界で行われたようなテキストサイトとはなにか?とか、ブログとはなにか?とおなじような、いわゆる「自己言及的=不毛定義系論争」をけっこうしているのですが、911やらジャーナリストの参加やらで、いつのまにやらマスメディアに取り上げられるようになって、サブカルチャー的な定義論争があまり意識されなくなった=サブカルチャー的段階を超えた、という経緯があるように観察されます。一方、日本にもともとあったアメリカでいうところのblog現象に類する「テキストサイト」という存在は、テキストサイトの「外」の世界でその呼称が流通するまでにはなかなかいたらなかったように、見えます(単純な確認手法だと、新聞でテキストサイトを含む記事を検索しても出てこない)。なのに、いざblog・ブログという「舶来語」が入ってくると、よくわかんないけどいいツールらしいぜ!って感じで、けっこうあっさりマスメディアでも扱われるようになっている・・というのが自分のおおかたの現状認識です。(それこそ、いっときのバブルかもしれませんが。)

自分はテキストサイトもけっこう好きな存在だったので、この断絶的事態がちょっと悲しくもあります。この個人サイト現象の社会的受容のキャズムはいったいどうして生まれてしまったのか?なにを意味するのか?むにゃむにゃ。

僕自身についてはニフティ−の会議室時代を多少の例外として、テキストサイトであったりブログであったりといったことについては何も知らない。なんだけれども、こういう事態は、自分が経験してきたかぎりでの日本社会においてわりとあちこちで見た光景だと思う。

それは抽象的な言い方かもしれないが、日本では、小さなコミュニティーベースで起きた波がそのまんまダイレクトに社会に波及していくという回路が断たれているということだ。http://d.hatena.ne.jp/flapjack/20031023で「歩く人が多くなって、道になること」について(これも抽象的にだが)触れたのは、こういう事態のことだ。

このことを、僕はイギリスに住む中でますます強く感じるようになった。なんで、そうなのか? あるいは、なぜイギリス社会ではそうではないように感じ、日本社会はそうであるように感じるのだろうか?*1

その理由の一端は、特に政治的運動に関して言えば、23日に書いたように、「60年代、70年代の政治運動の挫折に起源をもち、それ以来染み付いてしまった(ingrained)日本のシニシズム」であると思う。

もう一つは、日本のメディアの問題だと思う。

「小さなコミュニティーベースで起きた波がそのまんまダイレクトに社会に波及していくという回路」について、イギリスにおいて僕の得る印象のある部分は、イギリスのメディアに負ってる。つまり、イギリスのメディアは比較的「小さなコミュニティーベース」のものをよく拾っていると思うのだ。

実は、それはイギリスにおける階級とも結びついている。すなわち、クォリティー・ペーパーは基本的には中流階級のものである。中流階級のなかには中流階級のなかには単なる成金階層も当然存在するが、同時に学識の高い層も存在する。そこで、後者でなされている議論がその層の支持するクォリティー・ペーパーにかなりダイレクトに反映しやすい。保守派ならばタイムズ、中道派ならインディペンデント、左派進歩派ならばガーディアン(ただガーディアンが労働党政権支持ということで、ある意味中道化し、インディペンデントと重なってきている;大学では圧倒的にガーディアンが読まれている割合が高いと思える)など(詳しく書き出すときりがない)。これらの新聞の記者は高いレベルで専門化していて、たとえば、メディア、教育(教育一般、高等教育、生涯教育にわかれている)、コンピュータ、社会といったそれぞれの特集が、新聞本体とは別のかたまりとして、毎週それぞれについて10ページぐらいの厚さで提供される(さらにそれぞれ関連の就職広告が挟まるとこのかたまりだけで40ページを優に超える)。たとえば、このコンピュータ関連のなかで、ブログについても触れられるわけだ。

この日記のなかでもう何度も触れてきているつもりなんだけれども、イギリスでは、テレビ・新聞をみていて、単純に風通しのよさを感じることが多いのだ。なんでこれが日本ではできないのだろう、と思うことも多いし、残念ながら。

結局、日本ではマス・メディアが機能していないと思わざるをえない。引用した文で書かれているのも、結局、新聞はとりあげてない、とりあげても、アメリカあるいは舶来品扱いでしか取り上げることがない、ということだ。要するに、日本の新聞は、国内の様々な「コミュニティー」を軽視しているとしか思えない。

要するに、僕は、こうした問題は、「社会的受容」の問題というよりも、(マス)メディアというより具体的な情報伝達経路の問題ではないか?といいたいのだ。

*1:お前の考えは単なる外国人のぱっとみの印象論ではないか、という疑念はもっともだと思う。僕自身もこの疑念を今も自分に対して持ち続けているつもりである。しかしここで書いていることはそれなりの自分内でのテストを潜り抜けているということはいえる。その自分内テストについてここで詳しくは書かないが。もちろん批判は歓迎する。