学問と「世間」  阿部謹也 岩波新書

昨日は、友人の結婚式だった。

アメリカ人の花嫁とタイ系イギリス人の花婿。

花嫁は熱心なカトリック教徒である一方、花婿はべつに自分の家の宗教である仏教から改宗するつもりもなし、ということで、結婚式を、両方のやりかたで別々の日に行うとのこと。ただ、昨日のカトリックのほうがどうもパブリックなものなるみたい(だから、そこに招かれた、と)。まあ、そりゃイギリスだからそうなってしまうわな。いや、いい式でした。

こういう親類縁者みたいなものにでくわしてしまう瞬間に、「世間」ということを考える。


世間論といえば、阿部謹也だ。

どういう話かというのを説明するのは、たとえば佐藤直樹
http://kyushu.yomiuri.co.jp/jidai/jidai2003/030705.htm
http://kyushu.yomiuri.co.jp/jidai/jidai2003/030712.htm
に譲ろう。(こりゃ楽だな。)

欧米では「社会」やら「個人」やらが「近代」においてなりたったから、日本的な「世間」はないのだ、という話なんだけど。

基本的には、賛成。ここhttp://member.nifty.ne.jp/MASUDA/rock/sympo.htmlの増田さんみたいに、こういう感じでばしばし使って、学問をひらいたものにしていこうとするのは、正しいと思う。

ただ、佐藤直樹の話の最後に出てくるように、日本の世間はそうそうなくないんだから、世間を微妙にかえるなり、それを抑えるなにかをつくらなきゃいけない。それが、『世間』を再構築する」ことだととりあえずする。

で、おれがいいたいのは、そのときに、「社会」やら「個人」の話が成立してる場所として「だけ」欧米を引き合いに出すのは間違いだということ。

あとがきで、阿部謹也は、シンガポールやペルーでも同じような問題があると書いてるけど、その場合でも同じ。欧米は結局高く祭り上げられてしまうのだ。

まあ5年もすんでみて思うけど、たしかに、ヨーロッパは、近代だ。ポストモダンに進んでるのは日本のほうで、そういう意味ではヨーロッパは遅れてるとすらいえるかもしれない。でも、近代は、ほんとうにしっかり「ある」。「社会」やら「個人」が成立してる。

でも、やっぱり、「社会」と「個人」だけじゃあ、世の中はなりたたなくて、日本の「世間」っぽい話もまわりにはそこそこある。具体例を挙げる時間がないから、とりあえず飛ばすけど。

本当におもしろいことは、ヨーロッパのなかでは「世間」的なものが、日本みたいにすべてをおおっていなくて、それが「社会」とか「個人」とかという枠組みのなかに位置づけられるというか封じ込まれている、ということなのだとおもう。

で、そういう場所としてヨーロッパをみれば、それこそ日本にも応用可能なことがヨーロッパのなかに転がっているだろう、ということに気づくはずだ。

そう、ヨーロッパも「世間」とたたかってる場所としてみればいいんだよ。

たとえば、ビクトリア時代のミドルクラス(中産階級)の人たちにとってのレスペクタビリティ(respectability)という考え方は、世間と比較可能だと思うんだけど。

たとえば、イギリスのミドルクラスの父親がセックススキャンダルにまみれてしまったりすると、その家は、もうレスペクタブルではなくって、その家の娘はだれとも結婚できなくなってしまう、とか。

これとか、思いっきり世間だと思うんだけど。

もちろん、日本の世間とは、ちがう点はある。そういうのは、
http://www.copula.net/mag/vol_1/report03.html
http://homepage2.nifty.com/yas-igarashi/2002-12.htm
とかにでてくるこの語の用法をみれば、わかるとおもう。

でも、基本的に、近代のイギリスにおいても、日本の世間と比較可能なものが存在するといっていいと思うし、それをイギリス人がどういうふうに封じ込めようとしてきたのか、というのは、結構参考になると思う。

この時代を研究している日本の歴史学者とかたくさんいるのかもしれないけれど、そういう人たちのなかで、そういう視角でやってる人いないのかな。

乱暴にはしょって書いたんだけど、ながくなってしまった。