英米法vs大陸法?

http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000152.html
http://blog.livedoor.jp/futagotou507/archives/13083948.html
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20050124#p2 (のあたり)
 いろいろ考えさせられる。心情的にはmojimoji氏+田島氏側なのだが、論理としてはおおや氏側というか、その間で悩むのであった。
 ところで、おおや氏の立場は大陸法的であり、mojimoji氏+田島正樹氏の立場は英米法的である、というような整理は、まったくの見当違いだろうか。ご教示を願いたいところ。
 たとえば、英米法では陪審裁判をとる。一般市民から選ばれる陪審が審理に立ち会い、評決(verdict)を下し(「法を発見する」)、それにしたがって裁判官は判決を下す。もちろん、陪審はなんでも決められるわけではなくて、ある一定の枠内のではあるわけだけど、しかし、法とは一般の人々のなかにあることが少なくとも前提とされているように思う。この点で、陪審は、mojimoji+田島正樹氏の立場により適合的であるように思える。(ただ、mojimoji氏が言うのとはちがって、英米法でも、(おおや氏や)よこはま氏(id:mojimoji:20050131#c)がいう「専門家(法律家、法学者・・・)としての物言いと、自分が当該状況において何がより正しいと考えるかそのコミットメントとは、やはり分けて論じるべき場合はかなり多い」とは思うけれど。)
 一方、大陸法では、裁判において陪審はおかれず、法の専門家である判事(裁判官)のみによって判決が下される。法の専門性・中立性を強調する大屋氏の立場は大陸法的により適合的にみえる。日本は英米法ではなくて大陸法を採用したわけで、専門家のおおや氏が大陸法的に映るのはあたりまえのことかもしれないが。
 別に英米法のほうが大陸法よりも優れているとは思わないのだが、専門家の法(的正義)が、その外の正義と乖離したように思われる場合において、陪審をおく英米法は、その乖離をできるだけ少なくしようというインセンティブが働きやすいかもしれない。
 もちろん、それは衆愚的になる可能性があるので、それに対するある程度の予防策は必要であり、専門家の役割にはそれが含まれているだろう。
Cf.id:kaikaji:20050123

おおやさんの「正義」を「法」に優先させてはいけない」という議論を僕なりに勝手に、かつ極めて単純化して解釈すると、「法」の外部にある「正義」が優先する立場をみとめると、その「正義」が恣意的に運用される可能性があり、なおかつそれに対する現実的な歯止めが利かなくなる、という感じだろうか。

 
 この件では「語り口の問題」(id:shinichiroinaba:20050125#p1)があるのかもしれないけれども、そのレベルとはべつに、「法」は一般市民のなかにあり、専門家はそれを補佐するというような構えをもっている英米法のほうが、専門家と非専門家のコミュニケーションをより円滑にするようなメカニズムをビルトインしているのかも(まあ、これは妄想;あと、アメリカ法には政治しかない、という話も聞いたことがあるけど)。今の大陸ではこの点に関してはどうなのだろうか。
 以下は大屋氏に対する批判ということではまったくなくて、一般論なのだが、日本では、ひょっとしたら、専門家の法(的正義)(これには狭義の法だけではなくて官僚的正義も含んでもよいかもしれない)が、その外の正義と乖離したように思われる場合においてどうするか、という点において、現在の大陸法をとる国々よりもひょっとしたらもっと厳格、ある意味では厳格すぎるという可能性があるかもしれない。そう思ったのは、水俣病の顛末とかを見たときのはなしだけど。

そのほか印象に残ったやり取り
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/comment?date=20050206#c

mojimoji
僕の言いたいことは、法の僭称をしてでもかけがえのないものを守ろうとする人々に対して、それを共に担おうともせずに「法を尊重しろ」(アゴラに出て行け)という身振りを取ることは実力行使に過ぎませんよ、ということです。実力行使だと自覚してやってんなら、そういう人にそれ以上言えることはないかなぁ。でも、おおや氏やbewaad氏は自分たちの主張を単なる実力行使だとは思っていないでしょう。
t.ikawa
単に、一方が「実力行使」だという批判と、他方が「法の僭称」だという批判は双方成立する、ということだと理解しています。