ブックカバーをしないイギリス人

 というところからつらつらと、よしなしごとを考える。
 日本では本を買うときにはほとんど必ずブックカバーをつけるかどうか尋ねられる。そうしたブックカバーはだいたいの場合、その本屋特製デザインの紙製だ。電車に乗っていても、漫画雑誌を除けば、本にブックカバーをつけている人は非常におおい。ブックカバーの機能としては以下のようなものがあるだろう。まず、いうまでもなく本の保護のため。特に電車などで読むときなど頻繁に持ち運び出し入れする際、それから特に湿気の多い日本では本を長い間手にもっていると本を傷めるし。それから、紙製ブックカバーはグリップがよいという点がある。しかし、それらと同様に、あるいはそれ以上に重要なのが、どんな本を読んでいるのかを回りにいる人に知られたくないというプライバシーの保護意識だろう。
 イギリスでは、日本に比べるとブックカバーの使用率は相当にひくい、というか、人がブックカバーをしているのをほとんど見ない。だから、結構簡単に、その人が何を読んでいるかわかったりする。まあ、どの新聞を読んでいるかというのと、その人のみなりの両方をみれば、大体その人がどんな政治的立場の人か、ワーキング・クラスの人か、それともミドル・クラスか、とかかなりの精度で――さらにその人のアクセント(しゃべり方)をあわせればほぼ確実に――わかってしまう国なので、カバーをして何を読んでいるのか隠す意味があまりないかもしれない。
 だからといって、どんな本でもあけっぴろけに読んでいるわけではない。たとえば、自己啓発本の類、あるいはダイエット本の類を外で人が読んでいるのはほとんどみない。日本でも知られているアトキンス・ダイエットの本などあれだけ売れていても、それを堂々と読んでいる人はいない。また、サンとかのタブロイド紙の一部にはヌードが載っているが(ヌードが載せられているのは最初の見開きを開いて右側の3ページめ:そこに出た女の子のことをページ・スリー・ガールという)、電車のなかでそういうタブロイド紙を含めてヌードが載っているものを見ている人も通常はほとんどいない(ただこれはある程度人々がすむエリア・路線にも拠るが)。
 そこには、パブリックとプライベートを画然とわける感覚があるのが感じられる。たとえば、人にそれを見ているのが恥ずかしいと思われるものはプライベートな空間において享受するべきだという感覚がある。逆に普通の本のタイトルなどはそうしたプライベートなものとは思われておらず、それを読んでいる人がどのような人かを示す記号として機能してもかまわない――すなわちそれはパブリックなものである――という感覚があるように思われる。
 こうしたパブリックとプライベートという二項を踏まえて日本のことを振り返ると、日本ではそうしたパブリックとプライベートなものの区別はそれほど画然としていないように感じる。したがって、プライベートな空間で享受されるものだとイギリスでは思われているものがパブリックな空間のなかに公然とあったり(とくに歓楽街というわけでもないところに性的なイメージがおかれたり)、パブリックな空間のなかで享受されているように見えるかもしれない。そういう観点からいえば、ブックカバーの使用は、パブリックな空間にいつつプライベートな空間を確保する行為と考えられる。*1 さらに、プライベートなものがパブリックな場所に進出してそのまま都市景観にまで影響を与えたといえば、それは森川嘉一郎の『趣都の誕生』で論じられていることそのものか(あるいはそれの一解釈か)もしれない(未読なのでなんともいえない)。
 日本のことはとりあえずさておいて、イギリスに話をもどせば、こうしたパブリックな場所にいる人々の身なり、アクセント、読む新聞、本などを見るだけで、その人の経済的状況のみならず、その人の考え方の傾向までもかなりの精度で推測することが可能だ。もう少し例をあげれば、たとえばサッカーで、グラスゴーセルティックのファンというだけで、その人が、アイルランド系(カトリックスコットランド人の労働者階級出身であるという可能性が相当に高い(そもそもセルティックの旗の緑はカトリックの象徴である)。同じグラスゴーでもレインジャースとなると話はぜんぜん違う。もちろん、マンチェスター・ユナイテッドのようにそうした地域性・階級性から遊離してきている(したがってそうしたファンとその属性の組み合わせが一対一ではないような)世界的フットボール・チームもあるが。
 イギリスではそういうふうに社会のレイヤーがいちいち可視的であることによって、社会の成り立ちを見通しやすくなっていることは確かなように思える。それは一面では社会の「透明性」として考えられて利点でもあるが、同時に、身なりからアクセントからなにやかやがすべて記号として読まれることから、ある意味非常に息苦しい社会だともいえる。そういうのから逃れて、たとえばオーストラリアなどに移住するイギリス人というのも少なからずいて、そういう人たちのインタビューをかつて見たときに彼らが言っていたのは「イギリスではどんな車をもっているかまでジャッジされてとてもいやだった。オーストラリアだとそういうことがなくて自由な気がする」というようなことだった。
 ただ、イギリスでは多くの人はかなり開き直って「おれはそういうやつなのである(それでどこがわるい)」とむしろ自分の立ち居地みたいなものを自覚して、そこである程度自足しているように思う(それは満足とイコールではない)。それはいくつかある政治的立場の一つと共鳴しやすい。というかそれが最初からある程度セットになっているというか。それが、タイムズやテレグラフを読み伝統的には保守党支持派のミドルクラス(でイラク侵攻支持)とか、サンを読むワーキング・クラスであんまり政治には関心はないが総選挙があればサンが支持する労働党になんとなく傾きそうなやつとか、大学の先生は大体ガーディアン読みがちだとか、ミドルクラスの下のほうでワーキング・クラスの上のほうの人でインディペンデント読むとか。そして、それらすべてが綱をひきあって政治的コンセンサスを形成していく。
 こういう社会からしてみると、大学の先生でもスポーツ新聞読んでプロレスが好きでというといったことが何の不思議もなく当たり前な日本はアナーキーに見えるかもしれないが(まえも書いたかもしれないが、イギリスの大学で学部生はともかく教官がサンとか買っていくとほんとに「こいつ大丈夫か」とマジで社会的信用を失いかねない)、けれどもとても自由な気もする。
 別に結論があるわけではないが、とりあえずおわり。

*1:一方、電車内などでの携帯の使用に対しては日本のほうがより神経質であるように思うのだが、その説明として、携帯電話の音および会話が単にうるさいという問題ではなく、携帯の使用が、パブリックの空間にプライベートなものをもちこんでそこにいる人々に共有を強要していることになるからだ、という分析をどこかで読んだ気がする。ただ、携帯電話での会話の禁止はプライベートなものは隠せということであり、それはパブリックに共有されてもいいんだったら(それからあまり音がうるさくなければ)それほどかまわないという(イギリスでの)態度とは少し違う気がする。上で書いたことと重なるが、イギリスでは「パブリック」なものの定義として「そこにあるものは共有されてかまわない」ということがあるようだ。