研究者の身のふり

剰余研究者、またはプール研究者問題(id:using_pleasure:20040930#p1)
ここんところ労働者とか雇用の流動性についてつらつら考えてきてるのは、自身、剰余研究者として身のふりを考えてしまうからなのだけれども。

CNETの梅田氏によれば、それは「凡庸なサバイバル戦略」ということになるが、そもそも学的コミュニケーションの大半は金儲けに結びつくものではないのだから(少なくとも文系的には)、仕事をしながら趣味的に社会学的研究を行ないフィールドワークをして社会学の余白を埋めていくという郷土史家的態度でもって研究を行うほかはないのではないか。そのような形のライフコースが一般化して、アマチュア社会学者としてのプライドが獲得されることが、現在の剰余博士問題、プール研究者問題の解決につながるように思われる

id:using_pleasureさんは書いていて、さらに最後につけた注でこう付け加えている。

単純に言えば、ドクターが自らの鉄鎖を振りほどけばそれで済む問題なのだが。

それは確かだよなあ。

以下は関係するようなメモ。

官僚に博士号保有者が少ないことに関連して、bewaadさんが(ここから下のほうにスクロール)でこう書いているのは一つの参考になる。

国家公務員採用I種試験の年齢上限は33歳。 博士号を取得してからでも十分間に合う。 博士号保有者が極めて少ないのは制度の問題ではなく、受験者に修士号保有者はそれなりにいても博士号保有者はほとんどいないという博士号保有者のビヘイビアに帰せられるべきもの。

あと、稲葉振一郎が例えばフーコー読みの人に対して

 つまり何かフーコーから間違った教訓を得てしまった人が多いような気がします。「実学は権力の一部だから距離を取れ」みたいな。そうじゃなくて、素直に読めばフーコーの『監獄の誕生』は、権力の一部としての実学の批判的分析のお手本なんだから、早分かりして実学から手を引くんじゃなくて、まずもっと馬鹿正直に真似をして、権力に荷担する科学技術の実証的批判をやるべきだった。[中略]
 普通の意味で「実学」、実務的な科学・技術をことさらに忌避する必要もないわけです。「官僚にならないために、技術者にならないためにフーコーを読む」なんてのは間違ってます。そうじゃなくて「まともな官僚になるために、まともな技術者になるために、フーコーを読む」でなければならない。
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/foucault_ronza.htm

それはともかく、人文系の研究を志してしまった人はどうしましょ。とりあえず論文かけ、論文(w。