社会の流動性について(続き)

とおりすがりさんからコメント(id:flapjack:20040912#c)をいただく。

「外部労働市場の成立」と外部人材の活用、となると、総定員が増えない限り、クビ(天下り)になるI種職が増える。そうなると現在の官僚さんたちは、うれしくないので、内部人材で活用で済んでしまうと思います。誰も先行き不透明な労働市場へ行きたがらないでしょうから。
 シンクタンク回転ドア方式は、結局のところ役人の総定員を(見えない形で)増やすことですが、誰にカネを出させるかが問題でしょうね。まあ、見かけだけでも人材交流があったほうがダメ人間の淘汰につながるので悪くはないと思います。
 あと、政治任用は、信濃町な政党とかがいる限り辞めて欲しいもんですが...出世のために宗教を始める輩が出ないとも限らない。物騒なコメントですみません

 政治任用については僕はあんまり強調してきていないし、現状ではいわれるとおりたしかにまずいですよね。シンクタンク回転ドア方式についても同感です。で、ここまでならコメント欄でのお返事で済ませればいいんですが、最初のポイントが気になるので新しいエントリーにもってきました。といっても、ここでもとおりすがりさんに同感なのです。
 ただ僕が(とおりすがりさんに対してというわけではく)気になるのは、では「天下り」とは何か、ということなんですよね。天下り先を確保する」とかそういう言い方というのは、外部労働市場が存在しないからこそ必要になるような考えなのではないかと思うのです
 もちろん、外部労働市場があったとしても、官界と民間をつなぐある種のフィクサーのような「天下り」が全くなくならないとは思わないけれども(それはイギリスだって皆無ではないと思う)、外部労働市場があれば問題にされるほどの規模・程度にはならなくなるのではないか、 天下り」は結局、「セクション間の移動が難しい」日本の社会の一側面に過ぎないのではないか、と思うのです。僕的には、「セクション間の移動が難しい」ことこそがいろんな僕自身が感じる息苦しさの本丸であって、たまたまここで官僚のことを書いていますが、官僚のことはたまたまわかりやすいケースに過ぎない。つまり、天下りとかについて官僚を道徳的に責めたところで何一つ変わるわけではない、と思うわけです。社会構造的に天下りは「必要」とされているということ自体に向き合うことが必要だと思います。
 個人個人ができるだけ安定した生活を保とうとすることは当たり前のことで、それ自体を責めたりしても意味がない。ただ、そのような行動を促す大きな構造のほうに目をむけてみたい、という感じです。
 「セクション間の移動が難しい」という部分についてはid:flapjack:20040702で少し触れましたが、後日もう少し書きたいと思います。