図的言語

みなかさんのところで「図的言語」の話題。以下引用する(強調部分はflapjack)。

 朝食のとき,中村雄祐さんから図的言語について話をうかがう.Edward R. Tufte の一連の研究について.量的データのグラフィック表示の歴史は浅いようで深く,古いようで新しい.中村さんの話では,各国の日刊新聞の紙面で数値グラフがどれほど多く掲載されているかを比較したところ,日本の『新聞あかはた』がダントツで一位とのこと.その他,朝日新聞など日本のメジャーな日刊新聞では数値グラフがよく載っている.それに対して,Wall Street Journal,Times, Die Spiegel など海外のメジャー紙では「グラフ」が載ることは相対的に少ないらしい.これは意外,というか気にしたこともなかった.背景には,「図」で説明するというスタイルは「言葉」での説明とくらべて,表現としての順位がより低いという社会的認識があるそうだ.グラフィクスがあると「わかりやすい」という見解は一面的なのかもしれない.ダーウィンの著作で「図表」がほとんど出現しないという事実がある(私的なノートブックや書簡とは対照的に).これまた中村さんの話では,「図」を紙に印刷する技術の限界が制約条件になっているのではないかとのこと.Tufte の本は The Chicago Manual に相当する地位をグラフィック・デザイナーの間で得ているそうだ.Tufte の本(『Visual Explanations』2000とか)は,以前 amazon で検索して,数冊を買い物かごに入れた記憶がある.統計学の分野でも,「華やか」なグラフィクスが幅を利かすようになったのは比較的最近のことで,ピアソンやフィッシャーの文章には「図」はほとんどない.

 こんな研究がやっぱりあったんだな。「「図」で説明するというスタイルは「言葉」での説明とくらべて,表現としての順位がより低いという社会的認識があるそうだ」という感覚を、イギリスに来てしばらくしてから気づいた。日本人から見ると、この感覚はほとんど言葉で説明することに対するオブセッションといえるほどではないか、と思う。これは新聞とか論文に限ったことではない。
 例えば、道を聞いたときに、こちらの人はなかなか地図を書いてくれない。男のほうが女よりも地図を書けるという本があったと思うけど、日常生活では地図を書いて道を説明してくれることはほとんどない。言葉で説明するのだ。
 もっとわかりやすいのは、編み物に関してだ。僕の奥さんの趣味は編み物なんだけれども、普通日本の編み物関連の雑誌・書籍であれば、たとえばセーターを編むというときに、その編み方(パターン)は、編み図(というのだと思う)というグラフィックスで示される。ところが、イギリスではこの編み方を示すのに、編み図が示されることが非常に少ない。どういうふうに示すかというと、「この太さのこういう色の毛糸を、何号の針で、これこれという編み方で何目縫う。その次に別のこれこれという編み方で…」といったかたちで、箇条書きになっていたりはするが、しばしば延々と続く文章で説明されているのだ。編み図というグラフィックスになじんだ日本人の目からすると、こうした文章による表現で編もうとするのは全体がつかみにくくて非常に面倒かつ難しいらしい。
 イギリス人が文章よりもグラフィックスのほうをわかりにくいと思っているのか、というのはよくわからない。そうかもしれない。イギリス人には編み図のほうがわかりにくいのかもしれない(この点はできればちょっと取材してみる)。ただ、僕は論文を書いているとき、「ここグラフとか表入れたほうがわかりやすいよ」とか「このグラフがあるからわかりやすくなった」といわれたことはある。ただ、やっぱり一筋縄ではいかなくて、日本人ならば「どうかんがえても見ただけでわかるだろう」と思うようなグラフのいちいち細かな部分もきちんと言葉で説明をつけねばらならないと、読んでくれた先生や友人からコメントがついた。それだけグラフィックスに慣れていないのか、とも思ったが、どちらかというと、グラフィックスをみんなが同じように読みとれるかどうかについて不信があるのではないか、と思われるのだ。
 そう考えると、こちらのテレビにだんだん慣れていったときに気がついたことを思い出した。それはやはり言葉での表現に対する信頼とまた愛みたいなものである。例えば美しい建築をうつしているときに、ビジュアルを見て単に愛でるのではなく、微にいり細をうがって細かく言葉で描写し、その言葉に同時に酔うようなところがある。このような文化は、前回のエントリーで書いた修辞学の伝統(id:flapjack:20040901#p2)と関係しているのだろうとも思う。
 僕は、こうした「言葉での説明・描写・表現に対する強い傾斜」が、マンガ(そしてアニメ)に対する、変わりつつあるがそれでもいまだに差別的蔑視的といってさしつかえない視線と深く関係していると思う。
 ただ、ヨーロッパ諸国においてこの視線には多少の差があって、そういう視線は、フランス・イタリア・スペインなどのラテン(カトリック)系の国々のインテリの間であると思うが、これらの国々よりもイギリスやアメリカ(宗教的伝統においてはプロテスタント系諸国)のほうがマンガ・アニメに対する知識人の拒否反応は強いように感じている(ここでは話をインテリに限定していることに注意)。これは、図像表現に対する不信、文字に対する信頼という16世紀以降のプロテスタント的宗教文化と底で繋がっている可能性は高いと思う。