官僚と自民党政治(その3)

id:flapjack:20040428, id:flapjack:20040429からの流れですが、レスポンスが遅くなってすみません。既にいくつかの論点がでてきているので、ちょっと僕なりに整理してみようと思います。

1)政治家と官僚の関係
 これまでの自民党政治は、官僚を、自民党(与党)の政策立案のためのスタッフとして使ってきたという事実がある。したがって、官僚が政治家の領域に不明瞭に関与するということが日常的におきる。河野太郎はこうした状況を政治家主導の方向に変えようとしているのかもしれないが、bewaadさんの指摘によるように、自民党(すなわち与党政治家共同体)内部での変革にまだ成功しておらず、いわばゲリラ的に官僚と一騎打ちするというやり方にでた。彼の目指す方向自体に僕は同意するが、a)このやり方と、b)官僚とのやり取りを自らの「改革苦労話」として物語るパフォーマンスには、批判的距離をとる必要がある。
 a)とb)、すなわち彼のやり方とその見せ方に関して、彼がこのような方法を採る理由は理解できなくはない。自民党内部での説得活動は一筋縄ではいかないであろうし、それはなかなか公にしにくい(公にすることは説得活動を妨げることにもなりやすいであろうし、無用に敵をつくることにもなるだろう)。そうかんがえれば、とりあえず官僚と局地戦をやりあうほうが、対外的にはパフォーマンスとしてわかりやすい(僕がノセられたように)。とはいえ、これはベストなやり方とはいえない。では、どうすればいいのか、というのは彼にとってなかなか難しいところだろう。
 とはいえ、河野太郎自民党内部において同様に考える人々が増えていくようにがんばってほしい。ここでこういう風に書いたところで、必ずしも援護射撃にはならないだろうが。ある種の手の内をばらしていることになるわけだろうし。
 それでも援護射撃を試みるとすれば、政治家がリーダーシップを取るべきだという点に関する限り、河野太郎はそうとうマシな自民党議員であると思う。大きな図のなかでみれば、問題は、官僚に丸投げしてしまう自民党議員たちのほうだろうと思うからだ。(bewaadさんはこの点で違った考えをもっておられるかもしれませんが。)

2)官僚による公開論争はありか否か あるいは 責任の確定
id:flapjack:20040429でのid:kmiuraさんのコメントはたいへんありがたいものだった。そう、確かに「だとしたらなぜそこで悪印象、ということになるのか」ということは考えなければならないと思う。そして「彼らの能力ないしは意図を疑っているわけではないのです。隠蔽されており、なおかつ主張もなければ、それを眺める第三者の人間は、どうにもこうにも、え、そんな介入しているわけ、ウラでなんかやってんだ、としか思えない」ということは確かにある。控えめにも見ても、河野太郎がいっていることが事実だとして、もし「この二人の説得[自民党実力幹部二人による河野太郎に対する説得]が効かないならば部会長[河野]更迭はできませんかという物騒な声も役所内にはあった」のだとすれば、これはどう考えても行き過ぎだと思う。
 で、「公開で論争せよ」というのid:kmiuraさんの言い分にうなずく自分がいるのと同様に、それが難しいと言い分もわかるのです。id:kmiuraさんのコメントに対するbewaadさんの返答を再度ここにひきます(nanashiさんのコメントは3)の項で考えます)。「役所のカルチャーとしては基本的に個人が前面に出るのを好まないわけですが、まずそうでないと憎まれ役になるような仕事をやる人がいなくなってしまいます。次にリスクが個人で引き受けられるものなら、それをテイクするのをためらわないひとも少なくないと思いますが、組織に跳ね返る可能性を考えないわけにはいきません。さらには、人によってやることが変わるのは基本的には望ましくないから、という側面もあるのです。」
 とはいえ、僕はbewaadさんのいわれることに完全に首肯することはできない。例えば、「人によってやることが変わるのは基本的には望ましくない」としても、しかし実際には誰でもない人がその問題を扱っているわけではない。官僚の誰かがその問題を扱っているわけであり、そこで国民の生活に関わるかなり重要な決定が下されていたりするわけです。その問題がある部局あるいは課全体によって取り扱われているとしても、その部局あるいは課の長はやはり相当の責任を負うはずです。僕はそういう責任範囲はきっちりと特定されるべきだと思う。そのことと、「人によってやることが変わるのは基本的には望ましくない」ということは矛盾しないと思う。後者によって前者が覆い被されてしまうということが日本の官僚制には非常に強いという印象を僕は持っていて、僕はそれには批判的です。(人事のやり方自体を少し考える必要があるのでは?ともなんとなく思っています。)
 また、僕は、リスクが「組織に跳ね返る可能性を考えないわけにもいきません」というのに対しても理解はしますが、だからといってそれでよいことだとは思っていません。しかし、これはおそらくメディアの問題のほうとも関わるので、次の項で書きます。

3)メディアの問題
日本のメディアは、こうしたデリケートな問題を、なんでも二項対立的なわかりやすい構造のなかに押し込んでしまいがちだとおもうし、nanashiさんのコメントとも関連するけれども、ポピュリスト型の政治家に非常に操作されやすい。結局、問題を腑分けする能力が日本のメディアは非常に弱い気がしている。だからこそ、本当は個別に扱われなければならない問題が、すぐになんとか省全体の問題に跳ね返ったりすることになるのだと思う。
 
 まとめれば、政治家の側にも、官僚の側にも、メディアの側にも(そして国民の側にも)それぞれの問題があって、どれかひとつだけが変わればなんとかなるというものではない。それがなんとも難しいところだと思う。たぶん、政治家がもう少しまともになると、その他への影響は結構大きいと思うけれども、それはメディア側のつっこみとかがないとだめか。。となって、鶏か卵かという話になってしまうのだろうか。いろいろ書いたわりにあんまり面白くないオチだな。
 いずれにせよ、やはり、七面倒だけれども、それぞれの立場にある人々の責任の(再)確定という地道な作業をしていく必要があると思う。それは責任を押し付けられるということではなくて、むやみに本当はかかわりない責任を押し付けられる危険性を低下させることではないのか、とも思うのだ。

bewaadさん、情報ありがとうございました。この件についてはあらためて書きます。