Lost in Translation ロスト・イン・トランスレーション

id:kmiuraさんのところでid:kmiura:20040420のコメント欄からの流れでid:sujakuさんの評(id:sujaku:20040418)を読んだところで、id:flapjack:20040304で予告したものの忘れていたロスト・イン・トランスレーション評のことを思い出した。さらにid:kmiuraさんの評(id:kmiura:20040223#p1)も読み直したりして考え直してもみたのだが、それが以下。ちょっと長くなった。見たのは2月29日(日)だからずいぶん前の話だ。

ネタバレというほどのストーリーのある映画でもないが、いかに書いていることはネタバレと感じるかもしれないので、あしからず。

id:kmiuraさんとおんなじで、僕も、すでに見にいった何人もの友達から聞かれたので(「まだ、見てないの。結構いい映画だと思ったけどなあ。今度会ったときにぜひ感想を聞かせてよ」)、こりゃ見に行かないといけないなとさんざん逡巡した挙句、重い腰をあげてようやく見に行ってきたんだけど、予想外に悪くなかった。予告編につかわれている部分が一番ダメな部分でなかったほうがよかったと思うけれども(それは別に日本人である僕と僕の奥さんが思っただけではなくて一緒に見に行ったイギリス人とシンガポール人の友人もそう思ったとのこと)、その他の部分で、特に日本人をバカにしているとかとは思わなかった(あれは、売るために無理やりいれた感じだった)。むしろ、日本人とアメリカ人との関係を比較的きちんとポートレイトしたという点で、そういう映画はこれまでなかったように思われるということを考えれば(僕はそれほど映画のことを知っているわけではないが)、この映画を評価したい。結構笑わされたし。

ストーリーの紹介はid:kmiuraさんとかid:sujakuさんのところに譲るとして(ストーリー自体はたいしたことはない)、アメリカ人が外国にいって名所めぐりするという意味では、「ローマの休日」とかと近い「観光名所映画」と考えることができると思*1 まあ、その「名所」選択のセンスが「ローマの休日」のそれとは少し違っているとしても。

映像的には、僕はそれほど素晴らしいとかとは思わなかった。けれども、僕の友人たちには東京の景色はかなり印象深かったようで(「amazing! いつか東京に行ってみたい」という友達もいた)、そのことは、欧米のメジャーな映画のなかで今の東京がいかに撮られていないかということを示しているように思う。

この映画の大きなポイントは、やはり日本人とアメリカ人(あるいは英語話者)のコミュニケーション(あるいはコミュニケーション・ギャップ)だと思う。しかし、その描き方は単純ではない。たとえば、この映画を、アメリカ人がパーク・ハイアットという安全な世界から、ちょっと抜け出して日本というサファリに冒険に出ては戻り、というような見方も可能だと思うけど、それだけだと一面的過ぎる気もする。

この映画にでてくる日本人を、「日本人」として括って考えてしまうのはおおざっぱすぎると思うし、また民族的自意識過剰ではないか、という気がする。僕にとっては、むしろ、この映画の中にある、日本にくるアメリカのギョーカイ人と彼らに絡む日本のギョーカイ人の奇妙な関係に対する距離感のほうが興味深く思えた。この映画の俎上には、両方の国のギョーカイ人が乗っかっている。映画のPRにきているアメリカの女優の壇上でのしゃべりの不自然さは、アメリカ人ギョーカイ人に対する(そして同時に、そういう状況をエスカレートさせる日本のギョーカイ、そして消費者に対する)批判的視線を感じさせる。

逆の場合は、例えば、映画の後のほうで、バラエティー番組にビルー・マレーが出演するところだ。映画のなかだけの戯画化された番組かと思っていたのだが、今回日本に帰ってテレビをたまたまつけたら、あれ、ホンモノの番組だったのかいな。すごいな。*2 

あの場面は(それがアンフェアかどうかは別にして)イギリスやアメリカで広く行き渡っているアホな日本のテレビ番組のイメージを表象している。たとえば、イギリスには、叫ぶ日本人をフィーチャーした「BANZAI」という番組があるし、シンプソンズにも、シンプソンズ一家が出演者が手荒く扱われる破天荒な番組に出演するという回があったはず(「風雲たけし城」はイギリスでも衛星放送で見られる)。したがって、この場面は、「揶揄」として機能していると見ることもできる。しかし、実際そういう番組が日本で流れていて、それを単にアメリカの映画が場面につかっただけ、という見方もできるとおもう。特に、揶揄として撮ったと考える必要はない。さらに、この番組内で、出演者であるビル・マーレーはまともに扱われずバカにされているかのような図でもある(まあ、どの出演者も同じようにイジられるわけだろうから、ビル・マーレーが特別にバカにされているというわけではないのだろうが)。単純に、差別的だ、というようなものではないように思うのだ。

もう少し微妙な場面は、始めのあたりで、サントリーの高級ウイスキー「響」のコマーシャルを撮ろうとするCF ダイレクターがビル・マーレーに演技指導をしようとする場面だ。彼はそれなりにきちんとコミュニケーションをとろうとするのに。。。。この場面も含めて、日本語会話の部分に対して英語の字幕がなかったのはすごくよかったと思うけれども、それがあってもそれはそれでよかったと思う。映画のあと一緒に見にいった友達に「なに言ってたの」と聞かれて説明したら、なるほど。。っていってて、それは悪くなかった。きちんと意味がある言葉としてしゃべられている外国語を字幕すらなしで(特に)アメリカ人に見せるということは、それ自体快挙ではないかと思う。アメリカ人はあまりにもそういうことに堪えられなさすぎだ。

また、そういうギョウカイ人たちから多少逃れて(まあ本人たちもギョウカイ人なのだが)、夜の街に遊びにでるところの開放感というのが画面から伝わってきたし、そこでのコミュニケーションはもう少しまともだったような描き方だったと思う。

この映画をソフィア・コッポラ自身いろいろ取材したり自分の体験をもとに考えつくったことは明らかだけど、たとえばHIROMIXとか彼女の友人らしい日本人の日本人のクリエーター(ってやな言い方だけど)が彼女に影響を与えた可能性もあるな、と思った。あのあたりを買いかぶりなのかもしれないけれども、今の日本でモノをつくったりするときに介在するギョーカイ人のあり方に対する少しオルタナティブな視線を持っている人が介在していないとああいう描き方にならないかなあ、と。この映画を見た同じ日に読んだ波状言論2月B号で切込隊長が書いてたような話に繋がるような視線さえ感じたんだけど、それは絶対に買いかぶりすぎ(笑)。

いろんな人が書いてるけど、音楽はよい。10年ぐらい前にNHK BSで細野晴臣特集があって、そのエンディングで流れた「風をあつめて」にがつーんとやられてしまった(「恋は桃色」もよかったなあ)。その「風をあつめて」を、エンドロールで全曲通してイギリスの映画館で聞くような日がくるとは思わなかった。単純にいい曲だということもあるのだが、歌詞的に、東京を描いた映画の最後にふさわしいということということもあるのだ。きちんと選んでるなあ、という感じがするもんな(まあ、ソフィア・コッポラと組んでる日本人の誰かだろうけど、その人のことも含めて)。*3 

ほめすぎたかもしれない。

そのほか、id:kenyashi:20040422なども参照されたい。

逃避終り。

*1:id:sujakuさんによれば(id:sujaku:20040418)、フラン・ルーベル・クズイ Fran Rubel Kuzui 監督作品『TOKYO POP』を元ネタというか下敷きにしているそうだ

*2:同じキャンプなやつが司会する番組にしても、グラハム・ノートンとかジュリアン・クレアリーとは格が違うぜ(笑)。どっちがどうだとはいわんが。

*3:アメリカとかイギリスのドラマやドキュメンタリーで音楽がつかわれるときに、かならずその場面にマッチした歌詞の曲がつかわれていることに気づいていた。あ、ちゃんと曲を聴いて選んでいるのだなあ、といつも感心する。もう6年も以前の記憶だが、そういう歌詞を見た丁寧な選曲は日本のテレビではあまりなされていなかったように思う。ちょっとこの曲のこの使い方はないだろ、と思ったことが数多くあった記憶があるから。よくもわるくも言葉が強いのだと思う。