大義、他者、自分の気持ち

武田徹氏の「オンライン日記」、前のエントリーで引用したばかりだが、別の箇所をid:kmiuraさんが引用してる(id:kmiura:20040414#p2)。それを再引用。

死の危険を賭してでもイラクに行く。たとえ自分が死んでも誰かのためになりたい。報道を通じて世界に真実を伝えたい。あくまでも建前かもしれないが、そんなことを悲壮な自分の信条として躊躇なく語る人が増えているように感じるし、世間一般もそれをどこかで肯定する雰囲気があるように思う。

福田官房長官は「時代が変わった」といったが、まさに時代は変わったのだろう。変わったというよりも戻ったと言うべきかも知れない。大儀のためには死んでもいいと思う若者と、彼らの死を犠牲としても自衛隊撤退なしのスジに殉じるべきと言う政府は案外と近い場所に位置している。

で、この議論の延長線上に、これもいつも引用させてもらっている内田樹氏の以下のような発言がくると思える。
http://blog.tatsuru.com/archives/000063.php

国際社会に対するふるまいにおいてたいせつなことは「先方に客観的にはどう理解(あるいは誤解)されるか」を一次的に配慮することであり、「こちらが主観的にどういう意図であるか」ということを言い立ててもあまり意味がない。

小泉首相は人道復興支援「だから」撤兵しないと言い、「戦没者の死を悼むことは人間として当然のことだ」と言って靖国神社に参拝している。
彼にとって最優先的に配慮されるべきなのは「自分の気持ち」なのであり、それが国際社会で「どう解釈されるか」ということには副次的な関心しかない。

この「自分の気持ち」を「他人からの解釈」よりも優先させる態度はわが国の首相に限らず、メディアで発言する人々にも、たいへん気の毒ではあるが、いま人質になっている三人の日本人にも共有されている*1

*1:三人は解放されたみたいでまずはなにより。