世代論(?)

id:flapjack:20040227とそこのコメント欄の続きです。
ふーむ。妙なことになってきている気がするなあ。いや、僕の言葉の選択(特にid:flapjack:20040227#p1とかそこでのコメントで用いた「普遍」という言葉)が間違っていたような気もするなあ、とか反省点もあるんで(これについては後述)、まったく他人事のように語るというわけにはいかないということは承知しています。Ririkaさんやhizzzさんの問いかけにもそれなりに僕が考えられる範囲で応答していきたいと考えてもいます。
そのことを踏まえた上でなのですが、やはり、僕には議論の土俵そのものの違いが気になるわけです。というか、そもそもまさにそれこそがid:flapjack:20040224に最初に書いたことだったんだけど。たとえば、kmiuraさんのところ(id:kmiura:20040302)でコメントされたid:svnseedsさんは

これって単純に、昔の(今でも?)左系の連中(右でも変らんか)のツルシアゲ(「自己批判」とかw)を念頭においているかどうかの差なんじゃないのかなあ?>「降りる自由」。例えば極端な例だけど文化大革命の最中に「降りる」うんぬんできたかどうか。▼そういう状況がありうることが少しでも頭の中にあれば、「降りる自由」を担保しておきたいという発想は理解出来ない話ではない。ので、別段糾弾*1されるべき発想とも思えないのだけど如何なものでしょう。

と書かれてるし、この「糾弾」の主語を(Ririkaさんやhizzzさんではなく)ご自分だと思われたkmiuraさんが

降りる自由を別のやりかたで擁護したつもりです。[中略]「降りる自由」を主張する必要があるような社会状況、ということだな。

といわれるとき、すなわち、「降りる自由」が社会状況とか時代の文脈のなかで理解できるという立場は僕とほぼまったく同じものです。

で、このように「降りる自由」を「歴史的に」(「歴史的」という言葉が誤解をまねくとすれば、「過去の出来事・人物・考えとの関連で共感的に」)理解する立場を、Ririkaさんがそのものとしてとりあえず理解されているか、ということが僕には少し疑問です。もう少しいえば、Ririkaさんには、この立場がもう少し違った問題として映っているのではないか、という気がするのです。たとえば、以下のようなコメントを見ましょう。

読者は読者で、自身の体験に引き寄せて、たとえば「左翼的プールという水溜りのなかでおぼれがち」(id:flapjack:20040224#p4)になった心当たりがあれば、その主張は救いになるのだろう。それは普遍性へと広げられ、丸ごと首肯されてしまう。(id:Ririka:20040226#p3)

ここで「体験」がローカルなものであり、「普遍性」と対立するものとしておかれていることに注意してください。僕は、Ririkaさんがここで言っていることを間違いだとは全く思っていません。ローカルな体験が普遍化されるようなこと(たとえば、個人的な経験の押し付け)があれば、それに対して注意を払うことが必要であるというのは当然の主張です。
しかしその一方で、このRirikaさんのコメントは、その焦点が、このような人々に訴えかける東氏あるいは北田氏の政治性にあわせられているということを差し引くとしても、「社会状況」あるいはそれをくぐらざるをえなかった人々の歴史に対して、あまりempathetic(共感的な)理解を示していないことも確かです。(hizzzさんについても、「svnseedsさんどもです。左派的常識としては多分そうでしょうね。」と上述のid:kmiura:20040302で引き継ぐとき、似たようなことがいえなくはないと思います。)

〔僕が強調したいことは、以下の二点です。〕
1) 共感的に理解する(あるいはできる)からといってそれを普遍化すればいいというものではない。しかし、同時に、
2) 普遍化すればまちがいであるから、ローカルな(他人の)体験を(それが現時点においてかなり多くの人々 ― Ririkaさんやhizzzさんの上の世代の人々 ― によって共有されてるとしても)無視してもよいというものでもない。

〔もちろん、Ririkaさんやhizzzさんが 2)において批判されている立場をとっているあるとはポジティブには必ずしもいえない。〕 けれども、おふたりにとっては1)のほうが圧倒的に重要な問題であり、2)についてはそれほど重要ではない、ということはいえると思う。id:flapjack:20040224を書いたとき、僕がぼんやりと考えていたのは、そういう二つの潜在的立場のズレだったのだと思います。

この潜在的立場のズレは、「下の世代」の言い分としての1)と、「上の世代」の言い分としての2)というふうに、世代間の問題として生起しやすいのではないかと思います。残念なことに、この分類によると、僕は「上の世代」に分類されてしまうわけですが、「ほんとうに重要なことは、こういう些細な世代間の問題ではなくて、もっと先にあるわけ。僕は、その先を見たい。」と書いたとき、1)と2)が対立しあって、互いの立場を見ようとしないということが不毛ではないか、ということをいいたかったわけです(したがって、自分のことを「中の世代」としたい、と)。

[ただ、実際のコメント欄での議論のながれは、1)と2)の対立がかえって逆に深まってしまうような感じになっているような。このままだと「中の世代」失格であり、(おそらく同じく「中の世代」を演じようとしている東・北田両氏と同様に)抑圧的な「上の世代」として「下の世代」から認識されてしまうというわけでしょう。]

さらに、と自分に追い討ちをかけてしまうのだが、

「責任=応答可能性」については、偽日記の要約だけからでもうかがわれるように北田本においてもう少し「普遍」的な(すなわち、あらゆる考え(思想)が歴史的な文脈から完全に自由であることはありえないので相対的な意味でしかないが、歴史的な文脈に相対的に依存しない)議論がなされている可能性が高い(略)

id:flapjack:20040227のコメント欄で書いたのは(本文も参照)完全に間違いだろう。北田さんは、歴史的文脈にいることをむしろ引き受けて(「リベラリズム」をとりあえずひきうけてみて)いると考えたほうがいいのだと思う。ただ、それは、歴史的経緯によって描くのではなく、論理構築的に書こう(それがRirikaさん的には十分にそうではないのかもしれないし、それについてはこれから議論ができるかもしれないと思うが)、そして、リベラリズムにたどり着けずに脱落していく人々との関係で考えよう、ということなのだ。だから、むしろ誰にでも当てはまる「普遍」としてあの本があるわけではない。(論理構築的という意味で、普遍という言葉を使ったのがまずかった)。

というところまで考えました。[Ririkaさんの本丸の主張には触れられてないんだけど、とりあえず今日は]チカレタ。本当は日曜日にみた Lost in Translation の感想を上げたかったんだが、また今度。

*1:「糾弾」という言葉は「批判もしくは失望」へと後で訂正されている