「政治意識」から「情報回路」へ (続き)

ここのところ、政治とかマスコミとかについて考えていることが多いのだけれども、同じような考え方をする人がでてきているんだと思って、うれしく思っている。個人的には、僕が書いている程度のことは常識であたりまえだと思っているので、似たような問題意識をもった人は多ければ多いほどいいのだ。

自分でいろいろ書く時間がないし、とりあえずクリッピングだけ。

美濃口 坦「標語の世界」からの脱出 (2003年11月22日(土))
http://www.yorozubp.com/0311/031122.htm

 誤解を避けるために強調すると政策上の論争が日本にないわけではない。問題は、政党が政策上の議論に組み込まれていない点にあり、その一つの原因は報道する側が政党間の政策上の対立をおろそかにするからである。

 政策論議は地味な議論である。この地味な議論を日本で政治に近い場所でいつもやってきたのは官僚である。でもこの議論は密室の議論で、報道する側は記者クラブを経由して出来上がったものとして、また発表されたものとして報道してきた。そのような発表ジャーナリズムとは別に政治家の浮き沈みを描く「永田町」からの人間臭いドラマの報道があった。

ということは、メディアのほうも、政策実現過程を相対立する(政党間の)議論として報道することに慣れていなかったことになる。また政党のほうもどこか世界観・イデオロギーというこれも標語のようなものを掲げて済まし、選挙民もこの党は平和を守ってくれるとか、低所得層の味方とかとか思って投票してきた。
 
 選挙後の報道で二大政党に違いの見えないと叱る見解を眼にした。でもこのように思う人は、自分が従来のシステムに度の合ったメガネで政治を眺めているるかどうかを考えるべきではないのだろうか。

 確かに年金を維持するために財源を税金に求めることについて日本の主要政党の間に違いはないが、どの税金をあてるか、またどこまで従来の社会保険システムをどこまで維持するかは重要な政策上の議論である。その議論が重要と思えないで、政治家に突っ込んだ質問もしないでお座なりの回答に満足するのは、結局自分が「標語の世界」から脱出できないで、本当はわからないこともわかっているように錯覚しているだけではないのか。

成田 好三「匿名性に隠れる日本の新聞記者」(2003年11月18日(火))
http://www.yorozubp.com/0311/031118.htm
も参照。