英語と日本語 「開かれた抽象性」について

Ririkaさんによる「兄に教えてもらった先輩のウェブ日記」の要約。
http://d.hatena.ne.jp/Ririka/20031101

1) あるコミュニティの人びとが話す英語と似た英語が話せて「仲間入り」 をしたいのなら、そのコミュニティの人びとと長時間一緒にいればいい。バイリンガルとは、日本人グループにもアメリカ人グループにも 「仲間入り」 する語学力がある、という程度の意味か。だが両方で自分の人格が表現できているかどうかは全く次元が違う問題だ。

2) しかも人格や個性の表現だと思っているものはたいてい周囲の人間の話し方・言語表現のコード・スタンダードに対してどれほど距離を取るかという相対的なレベルに留まっているものだ。

3)  自分は「英語で適確に自分の思考を表現できるようになりたい」と漫然と思っていたが、それには、表現される前に 『自分の思考』 とやらが存在している、という前提が必要になる。でも最近は英語で表現するための思考は、思考されている時点ですでに日本語で表現される思考とは性質の違うものになることがよく解ってきたので混乱が深まっている。日本語の日記も書けなくなってきた。思考を始める前に、日本語で表現される思考に従うか英語で表現される思考に従うか、ということの方がずっと深刻な問題になっている。ある種の微妙な言語表現を共有するコミュニティを想定することになり、その先は,言語的に思考を洗練する努力 (=思考そのもの) は強く言語の選択に依存することになる。(思考を 「詩」 に置き換えても同じこと)

改行及び番号はflapjackによる。

1) の部分に関してはほぼ完全に賛成する。2)は後に回す。

3)改行以後の部分においては、あえて不同意する、というのが僕の姿勢なのだな、ということにこれを読んで気づかされた。その理由を述べようとすると少し長くなってしまうが、書いてしまおう。

最近、自分の分野の学問分野の日本の学術雑誌に投稿するために、ある論文を日本語で書いた。で、この論文は、今書いている博論の一章からとっているので、もともとは英語で書いたものの日本語訳ということになる。その日本語版制作過程の中で、どれくらい日本語だから、あるいは英語だから、という理由で書き直さねばならないかなあ、ということに自分で興味があったのだけれども、意外なほどそういう部分は少なかった。その上に、日本の先生などに日本語版の原稿を読んでもらってコメントもらった部分は、英語でも少々改善が必要な部分だったことが後でわかった。そういう作業を繰り返しているうちに、日本語版と英語版の違いはほぼないものになったと思う。日本語のほうは掲載が決まって、それはそれで固まり、一方、今、最終英語版のほうを修正中だが、これには日本語版を参照してたりして、自分のなかでは言語の相互乗り入れが進んでいる。

で、このあいだ書いたように、ぼちぼち片岡義男の『日本語の外へ』を寝る前に読んでいるのだけれども、今僕が書いたことと重なっているものとして読んだのが338-340頁の部分だった。片岡義男は、英語の「開かれた抽象性」について触れる。

開かれたとは、英語という言語の正用法の全域をきちんと学んで身につけ、それ以後の努力と現場での修練を積むなら、どこから来た誰であろうとも、自由に出入りして活用することの出来る言語世界がそこにある、という意味だ。そして抽象性とは、アメリカ国内のネイティブ文脈の外で、そのような文脈とは無関係にありながら、おなじ言語によるおなじ論理を誰もが駆使することが可能な世界、というものを意味している。

日本の人たちがこれからも英語の学習を続けていくのなら、学ぶ英語はこのような開かれた抽象性のある英語であることが、もっとも望ましい。ネイティブの閉じられた文脈のなかへわざわざ囲い込まれるために、出来るだけネイティブに近い英語を学ぼうとする作業は、ちょっと変わった個人的な趣味の位置へ降ろすといい。*1

片岡義男は、この部分の前段で、英語の「開かれた抽象性」を、「アメリカの英語が国際語のようになり得たもっとも本質的な理由」と考えている。僕は、それにはかならずしも同意しない。同じような「開かれた抽象性」をフランス語などの他の言語も持っているように感じるからだ。それはともかくとして、僕は、そうした「開かれた抽象性」が日本語にまったく不可能だとも思っていないのだ。

僕が自分の論文についてやったこと(そしてこれからもやっていこうとおもっていること)は、ひじょうに大げさにいえばなのだけれども、そういう「開かれた抽象性」を日本語に持ち込むためのささやかな実践だと思っている。特に僕の分野では「日本人には日本人のための・・・」ということを言う人が結構いるらしいので、そういうのではなく、日本語で読めるものと英語で読めるものが同じレベルで流通可能であるというような、「開かれた抽象性」(別の言葉でいえば普遍性)を自分なりに実現したいのだ。

そんなことを考えているので、3)に戻れば、なんというか、僕は、そこまで「微妙な言語表現を共有するコミュニティ」に属そうとしていないのかもしれない、と思う。そこまで「微妙」な表現は、あえて追及しない、という立場を選んだのかもしれない(あるいはそれだけの能力を僕はまだ英語で獲得していないというだけなのかもしれないけれども)。いずれにしても、僕が上で「あえて不同意」という言葉をつかったのは、日本語と英語を使い分けるということの帰結として、「日本語」はいつまでも片岡義男がいうような日本語のままで留まり、英語をしゃべれる人だけが「開かれた抽象性」に至るということが十分にありうると思ったからだ。(なんか飛躍しているような気もするが。でも)そのことが嫌なのだ。

2)についてはまたいつか機会があれば書くかも。疲れた。

*1:ここの最後部分は、ほんとその通り。そもそも「ネイティブに近い」といったって、どのネイティブのグループを選ぶのか、というのは実際大問題なのだ。選んでしゃべれても受け入れられないだろうよ、というケース多いしねえ(実家をはじめて離れ、大学に入学してきたばかりの学生が群れて飲んでいるのを見ていると特にそう思う)。あと、外国人がポッシュなBBC英語を話せると(そんなことが可能ならばだが)それはそれで問題なのだ。かといって、自分のいる田舎の方言をばりばりに学んでもしょうがなかろう(それが好きなら止めないけれど)。イギリス人同士でも、よくわからない英語というのはきりなくあるのだ(「あの人なんていってたの?」って俺に聞くなよ。って思いながら答えられるときもあるけど)。結局、誰とでも理解に差しさわりがない程度に癖がない英語を目指すことになるのだが、それがどういう英語かという問題は自分で解かねばならないのだ