シニシズム

東浩紀(id:hazuma)氏のところの日記で記された出来事については周知のことだし、自分はこの件それ自体について何の感想もない。ただ、彼のシニシズムについての以下の発言そのものについて僕は深く同意する。

要は、村社会というのは、決して「おれたち村を作りたい」というストレートな(動物的な?)欲望で作られるものではなく、「村ってキモいよね」とかいうシニカルな連中こそが実はいちばん村社会を作りやすくて、日本ではそういうシニカルさが妙に発達している、という話なんだけど。まあ、それはそれで、日本社会独特の個人主義というか懐疑主義や反権威主義の基盤になっているのでいちがいに否定できないんだけど、シニカルさの発達がある世代の生産性をかなり奪ってしまったことも事実。

イギリスに来てからまる5年以上が過ぎた。で、自分が日本について知っていることと同じくらいはとはいわないが、それでもかなりイギリス社会のあり方について自分なりの見方も固まってきたように思う。

ガーディアン(べつにそれはルモンド・ディプロマティークでもいいんだろうけど、おれよく知らんから)を称揚してたりするのは、やっぱりそれに値すべきものだからで別にヨーロッパかぶれになっているからではない。それと、イギリスが電車ひとつまともに走らせられない国になってしまっていることとは別のことなのだ。

いや、それでなにがいいたいかというと、なんで、おれが上の東発言に共感したかという話なのだった。

それは、イギリスで見た、反イラク戦争デモのすごさということになると思う。

当時、とはいってもまだ今年の話だが、トニー・ブレアと彼の内閣はブッシュ政権を支持し、戦争に向かって突き進み、国民を説得しようと懸命に試みていた。一方、多くの与党バックベンチャー(いわゆる政府閣僚あるいは閣僚を支える議員のチームではないヒラの国会議員)と野党第二党自由民主党(いわゆるリブデモ)、そして半数以上の国民は戦争に反対していた。

(保守党は最大野党であるにもかかわらず、ブレアを支持し、参戦決議(というのかどうか正確にはしらんが)でも賛成の票を投じ当時ブレアを助けた)

人々は、去年の秋の暮れから今年のはじめにかけて、ロンドン、そして地方大都市におけるデモが徐々に規模を大きくしていった。かなり大きな地方都市のど真ん中に位置する僕の大学の身のまわりでも、そういうデモにでかけていく人々はたくさんいた。ちょっと大学の自分の学科の研究室で勉強しつつダベっていると「じゃあ、おれ(わたし)ちょっとデモにいってくるわ」ってな感じで、みんな出かけていくのだ。

いちばんすごかったのは、2月の半ばにロンドンであったデモだ。たぶん史上最大ということになったのではなかったか。ロンドンから車で4時間離れた僕の大学のまえからも、バス30台が集結し、そこから日帰りでロンドンにいくのだ。おれは博論のある章を追い込んでいていけなかったが、おれの奥さんはイギリス人の友達に誘われて出かけていった。(その後近くの大学であったセミナーに出たときも、「あのデモにいった?」という会話が普通にかわされてた)。

僕がおどろいたのは、日本であるならばかならず聞くであろうこういうアクティヴィズムに対してのシニカルな声をほとんど聞かなかったことだ。「こんなにみんなが反対なのに、政府が聞かないんだったら、デモでもなんでもやって、どれくらい反対か見せるのは当然だ」といわんばかり、というかそのまんま。

僕はあっけにとられて、いや、すごいわ、と思った。

開戦直前に、院内総務のロビン・クックが戦争に反対する感動的な辞任演説を行い、閣僚辞任をした。

でも、結局、与党のバックベンチャーたちと一部野党、そして一般市民のデモは、政府の決断を覆すことはできなかった。戦争が始まった。結局とめることはできなかった。

けれども、それでみながシニカルになったわけでもない。「止められなかったけど、やることはやった」というかんじ。「この先を見届けよう」という感じもあった。そしていまだ大量破壊兵器がでてこない現状のなかで、ブレアはイギリスを誤った戦争に導いたという歴史的評価がイギリス国内でも下されるだろうということも確かなことに思える。あれだけの人びとのプレゼンスはやはり無視できるものではない。*1

イギリスで上にかいたようなデモがあった時期に、日本でもデモがあったようだ。たとえば、森健(ライター/ジャーナリスト)さんの日記を当時見ていたことを覚えているが(今もそのままだ)、それを引用しよう。
http://www.moriken.org/diary.html

03.2.19 デモ、でも。
■デモのことを書いたことで、数人の友人から「デモくらいで世界の時流は変わるもんじゃない」「政治の世界はそんな簡単に理想がとおるものじゃないだろ」といった話をされたり、メールで送られたりした。いや……、それくらい僕もわかっていますよ。

これなんかに見る森健さんのまわりの人々の反応は典型的だ。その人たちの反応は、わかりすぎるぐらいわかる。もちろん僕も、あたまのなかではこういうシニカルな会話を経由しないとデモをみれない自分が一部存在することを認めざるを得ない。でも、そこで立ち止まるというのは、単に歴史に縛られているだけなんだよな。

「歴史」といってしまった。たぶん、60年代、70年代の政治運動の挫折は、それを経験したことのない僕らまでかなりの程度侵食しているのだろう。

今引用した森健さんのまわりのひとたちの発言は、「シニカルさの発達がある世代の生産性をかなり奪ってしまった」という東浩紀の言葉を思い起こさせる。デモに行くという行動に対して、そういう発言は行動をとめさせようとする。でもさあ、別に、デモに行くのに水をささなくてもいいじゃん。人がなにかやろうってのをとめなくていいじゃん。

健さんは、上で引用した部分に続き、こう書いた。

■いろんな利権がからんで政治が動いていることは、石油利権の欧米諸国はもちろん、拉致で揺れる北朝鮮(における日本の政治)でも同じ。そんな仕組みは絶対変わらないですよ。
■でもまぁ、それをわかったうえでもネットや何かの力で動いたという事実のほうが大きいんじゃないかな、と僕は思ったのであります。

僕は森健さんは正しいと思うし、人はその「力」を感じたら動けばいいと思う。たぶん、それを感じているのは自分だけじゃない。「もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」。*2 歩く人が多くなって、道になること、日本のシニシズムはそれを邪魔していると僕は感じている。

*1:かといって、今の保守党の体たらくからすると、来年の総選挙もブレアで労働党は勝利するだろう。それくらい国民は覚めてもいる。要するに、この国の人は政治的に潔癖ではない、つまり良かれ悪しかれ政治的に成熟しているわけだ。この件はひとまずおいておこう

*2:魯迅