学会におけるシンポジウム

某月は学会シーズンで初めて出席したものもふくめていくつか参加した。何度も出席したことがある学会で聞いた個々の研究発表のレベルは、もちろん当たりはずれはあるものの総合的には上がっていると思う。
 
しかし、出席したどの学会でも、個別の研究報告ではないシンポジウムのほうはその質がてんでばらばらだった。つまり、全体として一定の水準が保証されているとはとてもいいがたい。
 
一般論として、以下この点を述べてみる。
 
一定の水準といったがこれには二つの側面がある。一つは、そのシンポジウムの個々の発表のレベルであり、もう一つは、シンポジウム全体としての整合性・かみ合わせかたのレベルである。シンポジウムという形式をとるとき、この両方においてとたんにその質が保証されなくなる。
 
まず、前者の個々の研究発表レベルでいうと、そのレベルでは密な仕事をだす人がシンポジウムのレベルでは非常に雑駁なレベルの発表をすることがよくある。もちろん、それは問題提起的な発表であるわけで完成度を求めるべきではないという考えはなりたちうるし、実際前口上のなかでそのような考えに訴える人も多い。しかし、例外はあるが、そういった「問題提起」として述べられるものは実際には知的緊張感を欠いているものが多い。実際のところ、書籍化されることも念頭においていないシンポジウムでは、言いっぱなしでよいと緊張感が欠落しているだけのように見える。
 
次に、後者のシンポジウム全体のレベルに話をうつそう。この点では、そのシンポジウムが焦点をあてている問題系について、それぞれの発表者が異なった題材を扱う際に、違った側面を強調したり、違った考えをもっていたりすることはあって当然だが、それらの違いがどのような付置 constellation をなしているのかを、発表者相互も企画者も共有していないし、あるいは関係者の間でなされた理解を聴衆と共有しようとしていないようにも思える場合がある。とはいっても、シンポジウムの前口上など聞くと、企画者たちは主観的には自分たちはそうしていると思っている場合もある。事前に関係者が数回の打ち合わせをおこなってもいるようだ。しかし、本番をみてもその成果がまったくわからない。
 
この二つのレベルは絡み合っている場合がある。特に後者が前者に影響を与えることがある。シンポジウムの企画と個々の研究者それぞれの関心とが整合されていないために、発表のフォーカスが分裂しているケースだ。この場合は、その研究者はがんばっているつもりでも、シンポジウムの意図だと聴衆から思われるものから、ズレたことを延々はなしていることになる。
 
こうしたシンポジウムの発表者が大先生である場合、事態はさらに悪化しうる。これにはおそらく、企画者が大先生につっこめないということがあり、すべてを大先生に丸投げしてしまうからだろう。
 
結果として、聞いた人がそのシンポジウムの意義のようなものをそれぞれ勝手に見いだしてお持ち帰り下さい、と単に述べておわりというようなことになる。そのようなことはいわれなくても聞き手はそうするだろう。重要なことは、企画・発表する側がそれぞれの立場でそのシンポジウムが扱う問題系にきちんとアドレスしているか、を聴衆が検証できる場をつくれているか、ということだ。そのような場をつくらないとすれば、それは企画側の無責任だと個人的には思うが、そのような考えは一般的ではないのだろうか。
 
非常に高いレベルで組み立てられているシンポジウムは存在する。けれども、そうしたシンポジウムの割合は低い。それはすなわち、シンポジウムというのはどの水準で組み立てられなければならないか、ということについてのコンセンサスが、今回見聞きした界隈では成立していないということに思える。