社会のレイヤー

「ブックカバーをしないイギリス人」(id:flapjack:20050130#p1)は僕のなかで区別されないままごちゃごちゃになっているままぼろっとでた文章で、個々にもう少し考えてみたいことがある。たとえば、このエントリーで

イギリスに話をもどせば、こうしたパブリックな場所にいる人々の身なり、アクセント、読む新聞、本などを見るだけで、その人の経済的状況のみならず、その人の考え方の傾向までもかなりの精度で推測することが可能だ。もう少し例をあげれば、たとえばサッカーで、グラスゴーセルティックのファンというだけで、その人が、アイルランド系(カトリックスコットランド人の労働者階級出身であるという可能性が相当に高い(そもそもセルティックの旗の緑はカトリックの象徴である)。同じグラスゴーでもレインジャースとなると話はぜんぜん違う。もちろん、マンチェスター・ユナイテッドのようにそうした地域性・階級性から遊離してきている(したがってそうしたファンとその属性の組み合わせが一対一ではないような)世界的フットボール・チームもあるが。
 イギリスではそういうふうに社会のレイヤーがいちいち可視的であることによって、社会の成り立ちを見通しやすくなっていることは確かなように思える。<中略>イギリスでは多くの人はかなり開き直って「おれはそういうやつなのである(それでどこがわるい)」とむしろ自分の立ち居地みたいなものを自覚して、そこである程度自足しているように思う(それは満足とイコールではない)。それはいくつかある政治的立場の一つと共鳴しやすい。というかそれが最初からある程度セットになっているというか。それが、タイムズやテレグラフを読み伝統的には保守党支持派のミドルクラス(でイラク侵攻支持)とか、サンを読むワーキング・クラスであんまり政治には関心はないが総選挙があればサンが支持する労働党になんとなく傾きそうなやつとか、大学の先生は大体ガーディアン読みがちだとか、ミドルクラスの下のほうでワーキング・クラスの上のほうの人でインディペンデント読むとか。そして、それらすべてが綱をひきあって政治的コンセンサスを形成していく。

と書いたとき、この「社会のレイヤー」というのが何かというのをあんまりきちんと考えられていなかった。それをぼんやり考えていたら、きしさんとこ(050205付け)で以下のような文を読んだ。強調はflapjack。

要するに道徳的意見っていうのは、「選択されるもの」ではなくて、「ある規則に従って産出されるもの」なのであって、だからこそ俺は「異なる道徳を持っている人々とどのように公共圏を形成するか」という問題(それだと何か道徳的意見というものが、その産出条件を問われないまま、無から生み出されるなにか、ランダムかつ主体的に選択されるなにものかになってしまう)よりも、「どういう社会的条件のもとで特定の道徳的な意見と態度のまとまりが産出・維持・伝達され、変容・消滅するのか」という問題のほうに興味がある。

 これを読んで少しすっきりした。つまり、イギリスでは「社会のレイヤーが見やすい」と僕がいったとき、それは、特定の「社会的条件」のもとにある人々のグループと「特定の道徳的な意見と態度のまとまり」のつながりが、目に見える形でわかりやすいといっていたのだ。そして、「特定の道徳的な意見と態度のまとまり」は、特定の新聞によって代表されており、さらにその新聞の読者層と「特定の社会的条件のもとにある人々のグループ」との高い対応関係があるということだ。
 きしさんの話をひきついだ稲葉さん(id:shinichiroinaba:20050205#p2)は次のように述べる。

「どういう社会的条件のもとで特定の道徳的な意見と態度のまとまりが産出・維持・伝達され、変容・消滅するのか」という問題から引き出される答えは、様々な社会的諸条件と、そこから生み出される道徳的態度のルースな対応関係、法則性のチャートのようなものになるだろう。

 イギリスにいて面白いと思うことは、この「対応関係、法則性」についてのかなり詳細なチャートが学術的知識としてあるのではなくて「一般人の常識」であるということだ。いうまでもなく、こうした対応関係・法則性についての一般人の常識が日本にないということはない。しかし、イギリスのそれは、朝日新聞の読者層と産経・読売新聞の読者層の間になんとなく想定されたりする政治的立場の違いなどといったものよりも、はるかに詳細なものだ。ほとんど余談になるが、一つ例を引いてみる。
 すでにどのサッカーのチームのファンかといったことが社会的・宗教的立場の指標・記号になることについては短くふれたが、さらに、どのスポーツが好きかによってもクラスがわかれてくる。たとえば、ミドルクラスでもサッカー(イギリスではフットボールだが)が好きな人は数多くいるが、しかし、サッカーが嫌いでラグビーが好きな人というのには、ミドルクラスの人が非常に多い。というのはサッカーは伝統的にワーキング・クラスのスポーツであり、その観客はラフである(言うまでもなくフーリガンがその極端な事例)からだ。そうしたサッカーのワーキング・クラス文化をいやがる多く(大部分というわけではなくても)のミドルクラスの家庭は、子供をスポーツ・クラブに送るときに、サッカーはなくてラグビーをさせる。週末、子供たちがラグビーの試合をしているのをみれば、そこで白人・ミドルクラスの人々の比率が高いことに気づく(ちかくにとめてある車がどんなのかにも注意 w)。ただ、ラグビーにも、ラグビー・ユニオンとラグビー・リーグというのがあって、たぶんリーグがプロでユニオンがアマチュアではなかったか(間違っているかも)。で、よりポッシュな人々は、アマチュアの方を好むらしい。そういうわけで、サッカーよりもラグビーが好きという人がいたら、でユニオン、それともリーグ?と聞いて、ある種のアクセントでユニオンと答えると、その人がミドルクラスの上のほうかというのがわかってくる。で、上のほうでも、ガーディアン的進歩派ミドルクラスがいるにはいるが、でも数的にはやはり保守党支持の保守層*1が多くなる(=タイムズ/テレグラフを読んでいることが多い)。で、クリケットについてラグビーと同じことがいえるかというと、まったくそういうわけでもないというのがまた面白いところなのだが、それは措いておく。
 こういうのは、別に学術的な論文を読んで知ったわけではなく、イギリス人の友達とかから「あれはこういうことなんだよ」ということで聞いた話(とそれの具体的会話における応用)だ。社会学者はこうした対応関係・法則性について調査によって検証できるだろう―そういう作業を実際にしているだろう―し、その結果として、イギリス人の一般的常識の一部が現実を反映していない側面があることを示すことは大いにありうるだろう。ただ、対応関係、法則性のチャートというブルデューの『ディスタンクシオン』的な話が、学術レベルではなく実は一般人の常識であるということは、非常に重要な社会学的(?)事実であるように思われる。
 このことの意味についてid:flapjack:20050130#p1で

イギリスではそういうふうに社会のレイヤーがいちいち可視的であることによって、社会の成り立ちを見通しやすくなっていることは確かなように思える。それは一面では社会の「透明性」として考えられて利点でもあるが、同時に、身なりからアクセントからなにやかやがすべて記号として読まれることから、ある意味非常に息苦しい社会だともいえる。

と書いたけど、この両面についてもまた後でもう少し精緻化してみたい(精緻化といったところで、あくまで素人の印象論にすぎないのだけど)。

*1:とはいっても労働党が移民などに関して保守党的政策をとってしまっているので、保守党が労働党との差異をだそうとして右に行きすぎて伝統的支持層からも支持を失ったりしているが