『木を見る西洋人 森を見る東洋人 思考の違いはいかにして生まれるか』 リチャード・E・ニスベット著(ISBN:4478910189)

少し前から気になっていた。三浦俊彦の読売新聞での書評で触れてある西洋人は「ある場面での人の言動を1度見ただけでそれが当人の本質だとレッテルを貼(は)ってしまいやすい」という話には心当たりがある。「誰々がこういうときに嫌いになった」という話がでたときに、「え、そんなことできめつけちゃうの?」とびっくりしたことが何度もあるのだ。まだ、この本を読んではいないのだが、原著(ISBN:0743255356) で買うと7ポンドもしないみたいだし、この本で出てくる心理テストをこっちの友人に試してみるというのはおもしろいかもしれないな。
 原著のタイトルはThe Geography of Thought: How Asians and Westerners Think Differently...and Whyというのだが、邦題との違いがいくつかの点で面白いと思った。その一つは、Westernersの対語としてAsiansが選ばれていること、あとAsiansが「東洋人」と訳されている点だ。
 Asiansというのは英語ではポリティカルにコレクトな言い方なんだけれども、しかしその中身は定かではない。アメリカではともかく、イギリスにおいてはAsiansというと基本的にはパキスタン系・インド系を指すのだ(それは単純に50年代の移民によって「アジア」からの最も大きな民族集団をなしているからだが)。書類関係で自分の民族的バックグラウンドを書く項があると「アジア系」(Asians)、「中国系」(Chinese)、「その他」(Other)という分類がされていたりして、慣れないと非常に変な感じである。いずれにせよ、この本で、Asiansとして一体誰がさされているのか、というのは気になる。
 Asiansというのは英語ではポリティカルにコレクトな言い方であるとかいたけれども、それはたとえば「東洋人」というのをOrientalsと訳せないということである。というのは、Orientalsというのは侮蔑的な言い方だからだ。サイードの『オリエンタリズム』をひくまでもなく知られていることだが、オリエントというのは、「西洋」的なもの以外の全てを投げ込めるなんでもバスケットみたいな概念だが、それが侮蔑的表現と認識されてあまりつかわれなくなった。そこで、Asia, Asiansという表現が中立的表現としてより広くつかわれるようになったわけだろうが、だけれども、Asia, Asiansという言葉がやっぱりなんでもバスケットのようにつかわれているという点ではあんまり変わらないような気もする。