「マックス・ウェーバー 羽入-折原論争の展開」

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Japanese%20Home%20Index.htm
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Max%20Weber%20Dabate.htm

羽入辰郎著「マックス・ヴェーバーの犯罪」(ミネルヴァ書房2002年)における問題提起を受けて、これに対する全面的な反論の書、折原浩著「ヴェーバー学のすすめ」(未来社2003年)が出版されました。本論争の射程は広く、ウェーバー研究者やウェーバー読者たちにも応答責任を求めるものとなっています。ここでは私からの応答を掲載すると同時に、皆様にも応答を呼びかけたいと思います。

羽入本についてはいろいろ書評がでてたので大体の内容については知っていた。たとえば、アマゾンを参照。*1 で、そのあと折原本が出ているということだけ知ってたけど、具体的に、こういう展開になっていたとは知らなかった。*2

ちょっと長いし難しく思える箇所もあるけれども、ぜひいろんな人に読んでもらいたいです。折原氏は偉いなと思うと同時に、こうして議論の場を設定した橋本努氏も偉いなあ。

以下引用するのは、この論争が起きるはるか以前の1999年9月に折原氏から橋本氏宛に送られた書簡(公開されている)の一部である(改行、段落分けはflapjackによる)。
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/letter%20from%20ohihara.html

学園闘争当時から、小生は、自説をパンフレットに認めて状況に投企しました。これは、立論の根拠を確実に読者に示すことによって、反論・反証を促し、その材料をむしろこちらから提供し、「よりよい説明を試みる人には耳を傾けようとす」る姿勢の表明でした。そればかりか、問題はたんなる学術論争ではなく、大学当局にたいする造反でしたから、処分の正しさがより説得的に説明されたならば、こちらは非を認めて辞職するほかはないという決意を秘めた(闘争としては、けっしてうまいやり方ではない)一種の決断でもありました。さて、小生がこの姿勢を学んだのは、ヴェーバーよりむしろデュルケームから(『デュルケームウェーバー』上、p.55)でしたし、この線に沿って、後の「実証主義論争」については、アドルノ、ハバマスにたいしてポパーアルバートのほうに軍配を上げました。その後の論文や著書でも、つねに反証材料を著者側から読者に提示する、という原則を堅持してきたつもりです。

むしろ、問題は、こちらがどんなにそうしても、反論・反証して討議・論争関係に入ろうとはしない学者が多すぎる、ということでした。テキストの読みについて、ひとつの正しい読みがある、と想定してかかるのも、そうでなければ、「いろいろあっていいではないか」「誤読こそ創造なり」「声を大にし、ジャーナリズムに乗ったほうが勝ちだ」とでも感得しているのか、討議・論争にならないからです。むしろ、「ひとつの真理」「ひとつの正しい読み」という規範的要請を引き受ければこそ、それをめざして異説間にも討議が起こり、活性化するのではないでしょうか。むしろ、不都合なことには黙っている、あるいはかえって批判者のスタイルばかりあげつらう、という「討議シニシズムニヒリズム」がはびこって権力主義を誘い出すことこそ、わが国の学問文化の問題と考えざるをえません。もとより、学兄の構想は、そうした学問文化ないし風土に対決して、自由主義的討議を活性化させようとの方向をめざすものとして、そのかぎり大賛成です。だからこそ、現実の学問文化を直視し、これと対決して、規範の是非を問いなおしてほしいと思うわけです。

この手紙が、今回の論争の3年ほど前に送られているということに注意して、「論争の展開」をお読みいただきたい。

いずれにせよ、この「論争の展開」によって、羽入本も最初に出たときとは少し異なる歴史的意義をもつことになったといえるだろう。そのような意義は、こうしたフォーラムの形成によってはじめてあらわれることが可能になる。結局僕はそういうフォーラム的空間を希求するものである。