スラヴォイ・ジジェク on 欧州憲法否決
昨日のエントリー(id:flapjack:20050603#p2)で
EUをひっぱる政治家たちが民衆の不安に対してまともに対応してこなかった
という分析がでている話をかいたけど、土曜日の論説でもスラヴォイ・ジジェクがこの点をさらに強調している。
彼の論説のタイトルは、欧州憲法は死んだ。まともな政治よ、永遠なれ。以下、要約しつつ訳してみたけど、かなりポレミカルだなあ、と。
真の(とはいってないけど)左翼は、政治エリートとかメディア・エリートと同一化しちゃあまずいでしょ、むしろ欧州憲法の国民投票はまともな選択肢を示していなかったわけで、むしろ否決することによって、ヨーロッパとはどうあるべきかについての、まともな政治的議論を再開することができる、という内容。id:fenestrae:20050604#TCEDepartAuTourの話とダブっているところもあるのでぜひそちらも。
アーミッシュ派の人々―アメリカのプロテスタント諸派のなかでも厳格で、質素な服装をし、ガスや電気を使用しないなど簡素で禁欲的な生活を送る人々―は、17歳になると、アーミッシュの共同体を離れて、世俗の生活を試すことをゆるされる。そのあと、アーミッシュの共同体にもどってもいいし、戻らずにアーミッシュの世界の外で暮らし続けてもよい。それは「自由に」決めてよいというわけだ。
これは真の「自由」な選択なのかというと、そんなことはない。禁欲主義的な共同体のなかで厳しく育てられてきた子供たちは、そとの世界について過剰な期待をもっており、セックスにせよ、麻薬にせよ、飲酒にせよ、一度外の世界にでるとやりすぎてしまう。そうしたものがふつうにある世界のなかで自らを律する経験をもたない彼らは極端に走ってしまうのだ。結局、彼らの多く―9割とジジェクはいう―は、数年のち、世俗から隔離された元の世界に自らもどっていく。
つまり、形式的には自由な選択をあたえられていても、そうした選択をするようになっている状況が、その選択を不自由なものとしているのだ。実際に自由な選択をするためには、すべてのありうる選択肢についてきちんと知らされていなければならない。しかし、そうするための唯一の方法は、アーミッシュ共同体に埋め込まれているという状況から彼らを引き剥がすということなのだ。
まったく同じことが、欧州憲法についてもいえる。つまり、対称的な選択肢を有権者たちは与えられていなかったということだ。最初から、イェスのほうに偏った選択肢しか与えられていない。エリートは人々に、事実上はまったく選択肢をあたえておらず、人々は、不可避なものを単に認めるように呼ばれただけなのだ。
ノーということは、その帰結をわきまえない近視眼的な反動だということですまされてきた。新しいグローバルな秩序に対する恐れとか、現状の福祉国家の伝統を守りたいとか。そのうえ、ノーはいろいろ違ったことに対するノーだともいわれる。たとえば、アングロ・サクソン型の新自由主義に対するノーなのだとか、現在の政府に対するノーなのだとか、移民労働者の流入に対するノーだとか。
けれど、これらのことすべてに真実がふくまれているとしても、フランスとオランダのどちらの国でも、ノーが、きちんとしたオルタナティブな政治的ビジョンをもって語られなかったという事実が、政治エリートとメディアエリートたちに対する最大の批判の根拠である。彼らの無能のしるしは、人々が望んでいること、そして不満におもっていることを、きっちり明確にことばにできなかったことだ。そうするかわりに、今回の否決に際して、こうしたエリートたちは、人々を、専門家のいってることを理解しようとしない、うすのろな学童のようにあつかった。
だから、今回の投票は、二つの政治的選択肢の選択ではなかったし、啓蒙され新しいビジョンにむかうヨーロッパか、古く混乱した政治的情熱かという選択でもなかった。わたしたちがあつかっている真の恐れは、否決が、新しいヨーロッパの政治エリートたちの引き起こした恐れである。それは、人々が、エリートの「ポスト政治」というヴィジョンを簡単に信じたりはしないという恐れなのである。
そういうわけで、政治的エリート、メディアエリートではない人々にとって、この否決は希望の表現である。政治はまだ生きているという希望、なにがあたらしいヨーロッパであるべきなのかについての議論はまだ続けられるという希望だ。だからこそ、われわれ左翼 (we on the left)は、ノーとわれわれがいうことで、ネオ・ファシスト連中と同じ陣営にたつことになるという「リベラル」な人―広くいえば左翼よりだがジジェクのいう左翼とは区別される―の嘲笑的なあてこすりを拒絶しなければならない。あらたなポピュリスト右翼と左翼が共有しているのはただひとつ、すなわち、まともな政治はまだ生きているということだけだ。
ノーということには、積極的な選択がある。選択できることそのことを選択すること、専門家の知識を追認するか、「不合理な」未熟さをさらけだすか、という選択肢しか示さない新たなエリートのゆすりを拒否することだ。われわれのノーは、どんなヨーロッパを我々が望むかのまともな政治的議論を始めるという積極的な決断なのだ。(以下略)
イザベル・ヒルトンの中国アップデート
同じく土曜日のガーディアン論説から。
http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,3604,1498958,00.html
中国共産党の一党独裁の正統性が、天安門以降揺らいでいることと、党がナショナリズムをあおっていることと関連しているという話。
イサベル・ヒルトンはid:flapjack:20050311#p2で紹介した番組にも出ていた人。ここの一番下に説明。
土曜日のガーディアンの論説は紹介しておきたいものがよくのるので、これからもできるだけ主なものはフォローしたい、けど。