ロビン・クック死去

 数日前にこのニュースを聞いたときはかなりショックだった。スコットランドで山歩きの途中に心臓発作で死去。何度もここで書いているが、彼のイラク戦争に反対する閣僚辞任演説(これは訳さねば)は歴史に残るだろうし、フランス・欧州憲法否決の際に彼が書いたガーディアン論説にもふれた(id:flapjack:20050606#p1)。秘書との不倫から再婚へとタブロイド的に大騒ぎされたが(僕のイギリスの友人の一人は「あんな不細工な人のことを好きになるなんて信じられない」といっていたw)、しかしこと政治弁論・ロジックという点では彼を上回る政治家を見つけるのは難しいだろう。
 ロビン・クックは、ゴードン・ブラウンが首相になった暁には閣僚として内閣にもどってくるだろうと思われていた*1。その日が見られないことは非常に残念だ。
 ロビン・クック(イギリス前外相)2005年8月6日死去。

ガーディアンのオビチュアリー(死亡記事だがほとんど短い伝記である):
http://politics.guardian.co.uk/labour/comment/0,9236,1544700,00.html
ガーディアンにロビン・クックが今年書いた論説一覧:
http://politics.guardian.co.uk/Columnists/Archive/0,9328,-1682,00.html
ロビン・クックの政治的遺産をめぐるさまざまな新聞の異なる評価:
http://www.guardian.co.uk/editor/story/0,,1545747,00.html
ブレアは海外での休日のためにクックの葬儀を欠席するらしい。それに対する批判と擁護がでている(最新のニュース)。一方、エディンバラセント・ジャイルズ大聖堂でなされる葬儀ではゴードン・ブラウンが弔辞を読むことになっている:
http://www.guardian.co.uk/guardianpolitics/story/0,,1545854,00.html

参照:id:rhyddさんのエントリ(id:rhydd:20050807)
   id:fenestraeさんのエントリ(id:fenestrae:20050807#RobinCookDecede)
   id:gachapinfanさんのエントリ(id:gachapinfan:20050807#p1)

広島原爆投下60年

というわけでしばらくお休みにしていたガーディアンウォッチ。少し再開。
数多くの論説が掲載されている。以下がとりあえずのリスト。
Focus: Hiroshima 60 Years On
http://www.guardian.co.uk/secondworldwar/hiroshima/0,16218,1531839,00.html
これに加え
Special Report: Second World War
http://www.guardian.co.uk/secondworldwar/0,14058,1085469,00.html
も参照(現時点ではここのトップに長崎原爆に関する記事がリンクされている)。

数日前、この Focus: Hiroshima 60 Years On 掲載を読んだときに目がひきつけられたのは、広島原爆投下翌日のガーディアンの社説が再掲されていたことである。まずは、これを全訳してみる。

広島原爆投下翌日のガーディアンの社説

http://www.guardian.co.uk/secondworldwar/story/0,14058,1542723,00.html
1945年8月7日(火)社説

人類はついに自分たちを完全に破壊しつくす手段を極める途上にある。将来のあらゆる国際関係は、よかれあしかれ、原子爆弾の存在によって影響されることになるだろう。原子爆弾の発見とその使用が、昨日、アメリカ合衆国大統領によってはじめて明らかにされたのである。原子爆弾はいうまだその揺籃期にある。しかし、その破壊力は、ドイツに対してもちいられた最大の爆弾の破壊力の二千倍であり、それは始まりにすぎない。スティムソン氏は、大統領の声明に加えて「これからさらになされる改良によって、現在の効力を数倍高めるだろう」と述べた。このような兵器が人類に対して用いられるというその考えがあらゆる人の心にもたらすにちがいない恐怖にもかかわらず、日本人に対してその兵器が用いられたことは、まったくもって正当である。用いられた爆弾の規模によって、爆弾投下の道徳性を判断するのは非論理的である。もし、RAF(イギリス空軍)が、その軍事行動を始めてから戦争終結までに、原子爆弾の一つ半に相当する爆弾をその町にのみ投下したのだとしたら、原子爆弾の使用の前例をつくったことと同じことになる。おそらく、ケルンに投下された爆弾についての数値をひけば、この新型爆弾の性質をより効果的に示すことができるだろう。というのは、ケルンに対するわれわれの(軍事的)努力は、数多くの空爆と用いられた莫大な数の航空機と人員によって、いまだに我々の心にきざまれているからだ。ケルンは、32,000トンの爆弾を投下された。一方、(広島に投下された)新型爆弾は、それ自体はちいさなものだが、20,000トンの爆弾に匹敵する。ドイツは、イギリスとアメリカの科学者たちと、この恐るべき兵器の開発にむけて競争しており、ある者は、ドイツは同じ月に原子爆弾を使う準備ができていただろうと見積もっている。これ以上勝利に値する競争は他には存在せず、チャーチル氏とルーズベルト氏が、彼らの科学者たちの忠告を入れて行動し、その他の非常に数多くの戦時研究についての主張にもかかわらず、この兵器(原子爆弾)の研究開発を早期の完成へ促進した英知は、この国とアメリカ合衆国によって、そして実に世界によって感謝をもって覚えられるべきである。
 もっともなことに、ほとんどの人々の心におこる最初の考えは、もし誤った人々の手にはいれば世界にとってあまりにも危険であろうこの兵器が、どのようにして管理されるのだろうか、ということである。トゥルーマン大統領は昨日このように述べた。「私は、合衆国国内において原子力の製造と使用を管理する適切な委員会の設立を直ちに考えるよう議会に要請しました。どのように原子力が世界平和の維持にむけて強力かつ強制的な影響力となることができるのかについて、私は議会に対してさらに考察をくわえさらに勧告を行うつもりです。」
 現時点で(確実だとすることができないにしても)考えられることは、原子爆弾製造の秘密は、イギリスとアメリカの手によってのみ握られているということである。原子爆弾を製造できる二つの工場はアメリカに存在する。しかしながら、科学の進歩はわれら一つか二つの国家の国境によって閉じ込められることは決してないであろう。我々は、ドイツの化学が、原子爆弾の方向に、我々とほとんど同じほど進歩していたことを知っている。そして、ドイツの科学者の多くはいまだ生きている。いかに諸国の競争が競り合ったものであったかを示すには、この爆弾につながる研究に強力な刺激をあたえたに違いない初期の発見に目をむけるだけでよい。その発見をなしたのはラザフォードの指導の下にあったケンブリッジのチームだが、彼らはドイツの別のチームとアメリカの別のチームにほんの少し先んじていたにすぎない。イギリス、アメリカ、ドイツだけが原子爆弾製造競争に加わっているという保証はないし、いくつかの別の国の科学者が、ひっとしてそのことについて世界には何もいわないまま、決勝点を過ぎることなどないという保証もない。
 トゥルーマン大統領は、現状では原子爆弾製造の技術的過程が漏れることはないだろうと述べている。漏れるとすれば、一部の筋では胃がいたくなるかもしれない。しかし、この爆弾の製造のために不可欠な鉱石―ウラニウム―は限られ管理可能な領域からしか発見されていないとすれば、もう少し安心することができるだろう。不幸なことに、ウラニウムがとれるウラン鉱は、世界中にかなり広い範囲にちらばっている。コーンウォールからノルウェーや北アメリカ、そしてロシアやベルギー領コンゴなどである。サクソンとオーストリアにもいくつかの有名なウラン鉱がある。明らかに、将来のドイツの管理にあたって、この鉱物の新たな可能性を考慮にいれねばならないだろう。アメリカにおいてこれらの爆弾の製造に携わったものたちの数からみると、こうした爆弾の製造は小規模でたやすく隠匿ができる仕業ではありえないということができるだろう。しかし、我々は、いまだに始まりなのであり、ドイツの復讐精神がかの国の科学者を駆り立て、隠すのがより簡単な新たな(原子爆弾の製造)過程の発見へと導くことも十分にありうる。はっきりしているのは、この兵器とそれを製造するあらゆる手段を保持するのに理想的なのは、平和維持をまかされた国際的組織である。しかし、他方で、自分たちがこの種の国際(原子爆弾保有の運営にとりわけ長けているのだと考えるのはばかげているだろう。たとえば、現在組織されつつある国連の安全保障理事会は、これをどのように考えるのだろうか。しかし、諸国の政府になんらかの分別を打ち込む何かがあるのだとすれば、それはこの兵器の存在に違いない。大国間の永続的合意を得てそれを維持することは難しい。しかし、それこそが、いかなる将来の戦争において出遅れた側に原子爆弾がもたらすであろう徹底的破壊(annihilation)よりも好ましい別の道である。

この社説については、この翌日にカミュが書いた『コンバ』紙社説を訳されたid:fenestraeさんの文章(id:fenestrae:20050809)をまずごらんいただきたい。同じこと、すなわち、「長崎への原爆投下以前、もちろん日本の降伏宣言以前」の文章であること、「被害についての現地からの報告は何もなく、原爆の放射線のもたらす被害について何も公表されていなかったこと」に留意する必要がある。
 しかし、放射線の被害が知られていたとして「用いられた爆弾の規模によって、爆弾投下の道徳性を判断するのは非論理的である」というこの社説の考えが完全に誤っているということとは簡単だろうか。いや、そういうことは簡単なのだが、この社説の考えを手放さない人々はいつづけるであろうとも感じられるのだ。
 「カミュの論調を見ると、原爆の威力やそれが国際政治に及ぼすインパクトについての論点ばかり」という指摘もこの社説についていえる。ガーディアンは、原爆の製造保持に理想的な主体は「平和維持をまかされた国際的組織」だというが、現実的には「大国間の永続的合意」ということになるだろうし、そうしなければならない、という。その後を知っている僕たちは、この「大国間の永続的合意」の具体的結果が「冷戦」だということを知っている。

参照:「英メディアのヒロシマ報道 −− 60年前の紙面は?」